柴田勝家

しばたかついえ (?〜1583)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

織田氏家臣。

越前国北ノ庄城城主。

「権六」、「修理亮」。
父を柴田義勝とする説があるが未詳。
織田信長義弟。
柴田氏

誕生年は未詳である。
尾張国愛知郡上社郷の出身と伝えられる。

天文18(1549)年、織田信秀没後、
信秀の子のひとりである織田信行の老職として、
信行の葬儀に列席。

天文21(1552)年、『萱津合戦』では、
織田信長に対して謀反を起こした坂井甚介を討つ。
天文23(1554)年、坂井大膳、河尻秀隆等が斯波義統邸を襲撃するが、
勝家は、これを平定。

弘治2(1556)年、信長側と信行側が武力衝突すると、
勝家は、信行軍の主力部隊として1000人を率いて出兵し、
同僚の林美作守部隊が崩れるまで戦況を支配する戦いぶりを見せる。

信長の前に合戦で敗北した後、信行と共に墨染めの衣を着用し信長に謝罪。
これ以後も、信行付き老職を務めたたものの、信行の若衆の津々木蔵人と対立し、
勝家は、信行の謀反計画を信長に密告。
信行は信長によって排斥される。

永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じて上洛。
勝家は上洛戦に有力武将として参加し、南近江の六角氏との戦いや、
京周辺の抵抗勢力との戦いで活躍を見せる。

元亀元(1570)年には、浅井長政の同盟破棄による苦境下、
長光寺城を任されたものの、再起した六角軍の攻撃を受ける等、
苦しく厳しいい状況下にあったが、信長から与えられた任務を忠実に果たした。
この時の勝家の戦いぶりは、後に軍記物「甕割り柴田」の話が
創造されるほどであった。

しかし、同年の『姉川合戦』では、勝家の部隊は、浅井軍の前に苦戦している。

元亀2(1571)年、『第一次長島一向一揆討伐戦』では、
殿軍を務めたが、一向一揆軍に襲撃され負傷する。
だが、傷を癒す間も無く、その後、近江の志村城攻略戦に参加し、
『比叡山焼き討ち』にも参加する。

天正元(1573)年、『越前朝倉氏討伐戦』で活躍を見せ、
朝倉義景を自刃に追い込む。

天正2(1574)年、奈良奉行に任じられる。
また、『伊勢長島一向一揆討伐戦』に参戦し、
一向宗本願寺派門徒の大量虐殺に関わる。

天正3(1575)年、『長篠合戦』に参加。
次いで、『越前一向一揆殲滅戦』で活躍を見せ、
ここに北ノ庄城を与えられ、越前国内八郡を知行地として任される。
以後、北陸方面における司令官を務める。

しかし、上杉謙信との間で行なわれた天正5(1577)年の『手取川合戦』で、
大敗北を喫してしまう。

天正8(1580)年、加賀国への侵攻を開始。
一向一揆衆を虱潰しに潰しながら、長連龍と連携し、
遂に加賀国を制圧。

天正9(1581)年、柴田勝豊等を伴って、安土城へ参上。
「馬揃え」にも臨み、馬廻衆、小姓衆に続いて、越前衆を率い、
威風堂々と行進した。

天正10(1582)年、越中国攻略に掛かるが、
6月に明智光秀本能寺の信長を襲撃する『本能寺の変』が勃発。
この緊急事態にあって、勝家は、上杉軍や一揆勢に備えねばならず、
すぐに動くことが出来なった。

勝家が対処に時間を費やしている間に、
秀吉が『山崎合戦』で光秀を討ち果たしてしまう。
その後、信長亡き後の織田氏の方針を決める「清洲会議」が開催されるが、
終始、秀吉のペースで重要事項は決定された。

勝家は、信長の妹の織田市を妻に迎えることで、
織田氏重臣としての面目を保つ。

天正11(1583)年、雪解けを待って近江国に進出し、秀吉と決戦を挑むが、
柴田軍の前線を構成していた前田利家等が秀吉方に寝返ったこともあって
賤ヶ岳合戦』で大敗北する。

勝家は、戦場から落ち延び、北ノ庄城へ戻り、
市をはじめ10人以上の側室、妾を手に掛け、
自刃して果てた。


《関係略図》
 織田信秀┳━信長      ┗━市        ││        │└────────────┐        │             │        ┝━━━━┳万福丸     │        │    ┣茶々(淀殿)  │        │    ┣初(常高院)  │        │    ┗江与(崇源院) │        │             │        浅井長政          │                      │        吉田治兵衛         │         │            │         ┝━━━━勝豊      │         │     │      │      ┏━女子     │      │      ┃        ↓      │      ┣━柴田勝家━┳勝豊(養子)  │      ┃  │   ┗勝政(養子)  │      ┃  │     ↑      │      ┃  │     │      │      ┃  └─────┼──────┘      ┃        │      ┃        └─┐      ┃          │      ┗━女子       │         │       │         ┝━━━┳盛政 │         │   ┣安政 │         │   ┣勝政─┘         │   ┗勝之         │        佐久間盛次

柴田勝家は、織田氏重臣として知名度は高いが、
一方で、勝家個人の出自や家族についての確かなことは不明である。

勝家の名が記録に初めて見えるのは、
天文18(1549)年に行なわれた織田信秀の葬儀においてである。
(天文21年説あり)

この時、勝家は、信秀の子のひとり織田信行付き老職と言う立場であった。
それは言い換えれば、信秀に、その才能を見込まれた人物であったことを意味する。

天文21(1552)年、清洲城の坂井大膳、坂井甚介、河尻秀隆等が、
信秀から家族を相続した織田信長に対して謀反を起こすと、勝家は信長方として参加し、
『萱津合戦』において坂井甚介を討つ。

天文23(1554)年、坂井大膳、河尻秀隆等が斯波義統邸を襲撃。
勝家は手勢を率いて応戦し、これを撃退。

なお、羽柴秀吉が、「木下藤吉郎」として、信長に出仕したのが、
この頃のこととされる。

弘治2(1556)年、林通勝、林美作守兄弟の策謀で信長と信行の仲が不仲となると、
勝家は、信行軍の主力部隊1000人を率いて出兵し信長軍と交戦。
当初は信長軍との合戦を優位に進める。

しかし、信長が攻撃目標を美作守部隊に絞って打ち破ったことを契機に、
勝家部隊も壊滅する。

合戦後、信行と共に墨染めの衣を着用して、信長に侘びを入れ臣従を誓う。

翌弘治3(1557)年、信行が津々木蔵人を重用することに反発した勝家は、
信長に内通。

結果、信行は信長に清洲城へ呼び出され、
信長の命令を受けた河尻秀隆の手で殺害されてしまう。

この勝家の帰順後、永禄元(1558)年7月の『浮野合戦』、
永禄3(1560)年5月の『桶狭間合戦』、永禄4(1561)年5月の『森部合戦』等、
信長は合戦を繰り返しているが、それらにおいて、確証度の高い史料に
勝家の行動は見えない。

とりわけ『桶狭間合戦』は、信長の運命を決する戦いであったにも関わらず、
勝家が参加した形跡は何も残されていない。

また、信長による美濃国侵略戦で、永禄6(1563)年4月、
勝家が『井ノ口城攻略戦』に出陣したものの失敗し退却した、とされるが、
この勝家の行動も確証度の高い史料には無い。

このため、信行を裏切って信長に付いた勝家は、
合戦に従事すること無く、合戦に出た信長の留守中、
尾張国内の政務に当たっていたとする見方が有力である。

あるいは、この時期の信長は、勝家のことを心からは信用しておらず、
同じ陣中に置くことを嫌ったからかも知れない。

さらに考えられるのは、後世、天下を統一した豊臣秀吉が、
勝家の功績を消してしまった可能性であるが、しかしながら、
信長の美濃国占領後の勝家の活躍については、しっかりと伝えられており、
後世の秀吉の仕業とするには、勝家の履歴が完全に消去されていない点に
疑問が残される。

いずれにせよ『桶狭間合戦』前後から美濃国支配までの期間、
勝家の確かな動静は不明である。

信長が足利義昭を擁立して上洛する頃になって、
「信長の家臣」としての勝家の活躍が、
ようやく日本史の表舞台に出て来る。

上洛戦が行なわれた永禄11(1568)年、
勝家は、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆と共に、
山城国西岡へ先鋒として乗り込み、勝龍寺城に篭る岩成友通を攻めている。
その後、北摂方面を平定する。

永禄12(1569)年の『北伊勢平定戦』では、大河内城を攻めた際、
勝家は、城の東方に配され、佐々成政、森長可等と同陣となった。

また、この時期、秀吉、明智光秀、丹羽長秀、村井貞勝、中川重政等と、
京都における信長の出先機関で奉行を務めている。
ただし、奉行と言っても、吏僚的な性格よりも、
むしろ戒厳司令部付将校のような性格ではなかったかと
推測される。

元亀元(1570)年4月、信長は『越前朝倉氏討伐戦』を仕掛ける。
勝家は、秀吉部隊と共に手筒山城を攻撃する等、奮戦を見せるが、
信長の同盟相手だった浅井長政の裏切りに遭い頓挫。

5月になって、信長は、ひとまず態勢を立て直すために岐阜へ戻る。
勝家は、同月12日、長光寺城を預けられ、近江国蒲生郡の治安維持を任される。
同時期、志賀城を森可成に、永原城を佐久間信盛に、安土城を中川重政に、
信長は、それぞれ守らせている。

6月4日、近江国野洲川付近にて、六角義賢の軍勢との間で
『落窪合戦』を戦い、敵780人余を討ち取り、南近江を制圧。

この合戦前後、六角軍は、長光寺城の水脈を断ち切る作戦を取るが、
勝家は、兵たちに甕に貯蔵してあった残り僅かな水を全て飲ませた上で、
その甕を自ら手にした槍で打ち砕き、決戦であることを城中に鼓舞し、
城から打って出て勝利した、と軍記物は伝える。

なお、勝家の危機を知った秀吉が京から駆け付けたことも、
六角軍が敗北した要因のひとつとなっていることは見逃せない。
この頃の勝家と秀吉は、協同作戦に当たることも多く、
親密では無くとも険悪でも無かったようである。

同月21日、虎御前山に進み、丹羽長秀、秀吉等の軍勢と共に、
小谷城城下周辺を徹底的に放火して焼き尽くす。

同月28日、雌雄を決すべく『姉川合戦』が行なわれ、
勝家は4段目に、秀吉は勝家の直前の3段目に布陣した。
だが、勝家の部隊は秀吉部隊と共に、浅井軍の勢いの前に、
大きく崩され苦戦した。

合戦後、小谷城の付城として、浅井氏から奪い取った横山城を、秀吉は任される。

8月になると、摂津平定のため岐阜城を出陣した信長は、
秀吉の横山城に入り、次いで、勝家の長光寺城に宿泊している。
この辺り、信長は、勝家と秀吉を同格の武将として扱うことで、
両将を競わせようとしたのではないかと推察される。

9月16日、朝倉氏と浅井氏の連合軍が、湖東から大津坂本へ進出して来る。
朝倉浅井連合軍は、宇佐山城の森長可を血祭りに上げ、21日には、京に迫った。
しかし、信長が摂津国から転進すると、24日、そのまま比叡山に篭ってしまった。

25日、信長は比叡山を攻囲。
勝家は、氏家卜全、安藤守就、稲葉良通の美濃三人衆と共に田中に布陣。
和議が成立する12月まで圧力を加えた。

元亀2(1571)年5月、『第一次長島一向一揆討伐戦』に出陣。

この合戦で、大田口方面へ展開し、
一向宗門徒を一人残らず抹殺するために放火したものの、
門徒たちに山中の難所へ逃げ込まれてしまう結果となった。

これを監視する織田軍で勝家が殿軍を務めていると、
突如として、一向宗門徒が攻め寄せたために勝家は負傷する。
この時、負傷した勝家に代わって氏家卜全が自らの部隊を率いて、
一向宗門徒の前面に出たが、門徒の勢いを止められず、卜全が戦死する等、
散々な結果となった。

この出来事は、勝家の心の中に、
一向宗に対する憎悪の念を一層激しく抱かせたものと思われる。

不名誉な負傷から数ヶ月後、8月には、近江国志村城攻略戦に参加し、
その翌月の9月、比叡山を焼き討ちする。

元亀3(1572)年3月、三好義継が松永久秀と共に、
高屋城の畠山昭高を攻撃したために、佐久間信盛等と共に、
昭高の救援に向かう。

7月には、小谷城城下の町を、秀吉、長秀等と破壊。
美濃三人衆と共に陣を構える。

この年、勝家と、安土城の中川重政との間で、領地や税の徴収を巡る紛争が勃発。
重政は、このために処分を受けて、近江から去る。

天正元(1573)年、信長と足利義昭の間が決裂。

2月になって、義昭側が石山に要塞を建築し始めたために、
明智光秀、長秀等と、これを攻撃。
4月、百済寺に篭る六角義賢勢を攻撃するための司令官4名の一人に選ばれ、
百済寺を焼き討ちする。

7月、義昭が篭城する填島城を攻囲。

義昭を追放した織田軍は、次いで越前国へ攻め入る。
勝家は、美濃衆と共に平泉寺へ進軍し、
朝倉義景を自刃に追い込む。

その後、織田軍は、北近江へ転進し、
秀吉の奮戦によって、浅井氏父子を自刃に追い込む。

この時の戦果が、勝家と秀吉の命運を大きく分けたとも言える。
即ち、越前で活躍した勝家は、その後、北陸戦線に深く関わることとなり、
北近江の小谷城落城に活躍した秀吉は、その功績で、
北近江三郡を任されるのである。

さらに、織田軍は北伊勢へ攻め入り、勝家は滝川一益と共に、
坂井城、近藤城を攻め落としている。

この年、秀吉は、それまでの「木下」姓を捨て、
丹羽長秀から「羽」、勝家から「柴」を貰い受けて、「羽柴」姓と名乗るようになる。
これを、勝家が、どう思っていたのかを伝える史料は無い。

天正2(1574)年3月、長秀、信盛、荒木村重、松井夕閑等と共に奈良奉行に任じられ、
東大寺に出向いて、正倉院所蔵の香木「蘭奢待」を信長の元へ運び出す。
7月には伊勢国長島へ出陣。『伊勢長島一向一揆討伐戦』である。
織田軍は、9月に、一向一揆衆20000人を焼き殺し決着を付けた。

天正3(1575)年4月、三好康長を攻撃すべく南河内へ出陣。
丹羽長秀、佐久間信盛、塙直政と共に南河内へ展開した勝家は、
周辺の村々を完全に焼き払い、植え付けられたばかりの麦苗を切り取る等、
農民にまで徹底的な被害を及ぼしている。

5月には、武田勝頼を相手にした『長篠合戦』に出陣し勝利する。

8月になると、『越前一向一揆殲滅戦』へ出陣。
長秀等と「鳥羽城攻略戦」で奮戦し、600の頚を討ち取る。

『越前一向一揆殲滅戦』が、一通りの成功を収め、
勝家は、9月2日に、信長から越前国内八郡49万石と、
その政庁としての北ノ庄城を任される。

ただし、領内の経営は、信長が言いつけた「掟九ヶ条」に従うものであった。
そこで、信長は勝家の目付として、前田利家、佐々成政、不破光治を付けた。

利家らは「府中三人衆」と呼ばれるが、勝家の与力として置かれたわけでは無く、
織田軍の戦略次第で、この後、弾力的に運用される信長直属集団であった。
これとは反対に、「府中三人衆」は勝家の与力として付けられたものと見る説もある。

ここに勝家は、織田氏家臣団の中で、初めての「国持ち」となる。

しかし、一方で注目されるのは、この年、明智光秀と羽柴秀吉が、
朝廷から、それぞれ「日向守」と「筑前守」に任官されており、
さらに、光秀、丹羽長秀、塙直政は、それぞれ「惟任」姓、「惟住」姓、「原田」姓を、
賜姓されている等、信長の尽力で、朝廷から任官等されているにも関わらず、
勝家は全くこの名誉に浴していないことである。

家中で唯一人だけ「国」を任されていたために、
勝家は他の武将とのバランスを考慮して外されたのであろうか。
だとすれば、この辺りは、信長の人事の絶妙なところとも言える。

この時の勝家の心の内を伝える史料は何も残されていない。

なお、織田軍は、越前国で一向一揆を駆逐した後、
明智光秀、羽柴秀吉、梁田広正等が加賀国へ攻め入り、
占領した加賀国江沼郡と能美郡を、信長は広正に任せている。
だが間もなく、広正は、加賀国平定に失敗したことで、信長によって解任され、
勝家に加賀国平定が委ねられる。

天正4(1576)年、領内に通達を出し、
勝家は、本格的に領内の経営に着手する。

勝家が領内に重税を課した記録が残されている。
これは農民に一向宗本願寺派門徒が多数を占めることから
本願寺への弾圧でもあった。
その一方で、商工業者には優遇措置を取っており、これは商工業者が
一向宗本願寺派門徒では無かったからと考えられる。

信長は、前年の12月に本願寺と講和したが、この年の4月に石山本願寺を攻める。
この状況下、越前でも一向一揆が再び決起するが、
勝家は、情け容赦無い殺戮を行ない鎮圧した。

天正5(1577)年、領内で検地を実施したことが古文書に見える。

また、この年から翌年にかけ、勝家は、領内において、
一向宗寺院や一向宗門徒を対象にして「武装解除」を実施した。
鎌倉時代に行なわれた僧兵に対する武装解除と同種と考えられる。
所謂「刀ざらえ」の実施である。

なお、この「刀ざらえ」は、江戸時代中期の書物で「刀狩」と表現され、
それら江戸時代の書物の記述に拠ると勝家は、回収した刀や槍等を鋳直して、
「船橋の鎖」に用いた、とされる。

ただし、後に、勝家は本願寺派門徒以外の一向宗門徒に再武装させている等、
処置が徹底したものでは無かったことは留意されるべきである。

そして、閏7月、上杉謙信と通じる遊佐続光が加賀国七尾城を攻囲。

信長は七尾城救援のために派兵を決め、
8月8日、織田軍の前衛部隊30000の総大将として勝家は出陣する。
後から信長直率の本隊18000が出発予定であった。

前衛部隊には、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、
稲葉良通、佐々成政、前田利家、不破光治等が配されており、
錚々たる顔ぶれを率いての出陣であった。

しかし、陣中において、勝家と秀吉は対立し、秀吉は無断で陣を抜けてしまった。

折からの豪雨にも負けず勝家は、軍を進め、手取川を強引に渡河。
そこに「上杉軍37000が接近中」の情報が届き、慌てて勝家は撤退命令を出すが、
増水した川の激流と上杉軍の攻撃のために、多数の犠牲者を出してしまう。
即ち『手取川合戦』の大敗である。

一方の秀吉も、信長の怒りを買うこととなり、
信長から赦免されたのは、10月のことであった。

勝家と秀吉は、ここに修復不可能な遺恨を残すこととなった。

天正6(1578)年3月、上杉謙信が死去。
上杉氏内部では上杉景勝と上杉景虎の間で、
甲斐国の武田勝頼を巻き込んで、家督相続を巡る争い『御館の乱』が勃発。

それまで勝家を苦しめていた上杉軍の動きが鈍るようになる。

天正7(1579)年、摂津の荒木村重征伐に、
北陸方面から前田利家、不破光治、佐々成政、金森長近等が動員される。
なお、利家、光治、成政、長近等は、村重逃走後、成敗奉行として、
事後の処分に当たっている。

この年、信長と本願寺との間で全面講和が成立。
この講和条約の中の北陸方面に関する条件としては、即時停戦と、
織田方が占領している加賀国江沼郡と能美郡(石川郡と加賀郡説あり)を、
本願寺へ返却することであった。

ところが、翌天正8(1580)年閏3月、勝家は、加賀国へ侵攻を開始。
本願寺との間で前年に成立した講和を完全に無視した軍事行動であって、
勝家は、加賀国における本願寺の重要拠点である金沢御坊を攻め落としている。

この時の勝家の行動が、本願寺では、顕如と教如の対立を呼び、
結果として、本願寺の東西分裂の遠因となった。

勝家の加賀平定作戦は、長連龍の協力を得て、11月には、一揆衆を鎮圧し、
完全に平定を終える。

この年、秀吉もまた、因幡国と伯耆国の2ヶ国を平定している。
一方で、8月には、佐久間信盛は、家中から追放処分となった。

追放するに当たって信長が信盛に送りつけた書状の中に、
「勝家は越前を任されているが、なおも手柄を挙げねばと励んで、
加賀を平定している」として、勝家の忠勤を褒めている。

天正9(1581)年2月、安土城へ登城し信長に拝謁。
そのまま、同月、京で執り行われた「馬揃え」に参加する。

ところが、勝家が上洛している間隙を突いて、
越中国の一揆衆が蜂起して小井出城を襲撃する。
また、加賀国でも一揆衆が蜂起し争乱状態となった。

続いて、上杉景勝越中侵略の急報が届き、3月15日、勝家は帰国する。
24日、上杉軍は、勝家の加賀到着を察知すると松倉城に撤退する。
こうして、景勝が松倉城と魚津城との間に防衛線を構えたことで、
北陸戦線は膠着状態となる。

天正10(1582)年3月、越中国富山城を攻略するに当たり、
攻囲中の陣から富山城落城後の処分の指示を、武田氏征伐の陣にあった信長に仰ぐが、
信長からは「存分にせよ」との指示書が与えられている。

なお、この越中国での陣中で、
柴田勝豊、佐久間盛政、佐々成政の間で諍いが生じた。
その後も、勝家と成政との間で、両者が激昂するほどに対立する等、
勝家の指揮官としての調整能力の欠如が疑われる面も見せている。

このような中、勝家は、富山城を落として魚津城の攻略に取り掛かる。

4月、景勝は魚津城の危機に、遂に意を決して、
勝家との間で決戦を行なうべく天神山に進出して来るが、
勝家は、迫る上杉軍を前にして、ひたすら陣を固めて、
上杉軍との野戦を避けた。

勝家が指揮する織田軍の人心がバラバラとなっており、
さしもの勝家も、ここで決戦に挑むことの不利を認めざるを得なかったのであろう。
ここで、上杉軍が強引に攻め寄せていたら非常に危ない局面であった。
だが、天は勝家に味方した。

武田氏征伐に向かった織田軍が、
信濃国の海津口方面に展開中との一報が景勝に届き、
上杉軍は、勝家の陣の前から撤退し、越後国へ引き返したのである。

勝家は、魚津城の攻略を開始。

この時期、勝家の領内は、能登国七尾城に前田利家、
加賀国尾山城に佐久間盛政、加賀国大聖寺城に拝郷家嘉、
越中国富山城に佐々成政、越前国大野城に金森長近等が配されていた。

6月2日、『本能寺の変』勃発。

明智光秀が本能寺に織田信長を襲撃し、
信長は燃え盛る炎の中に、その生涯を終える。

この事変を、秀吉が知ったのが6月3日のことで、
丁度、勝家は、魚津城の攻略に取り掛かった時であった。

勝家が『本能寺の変』を知ったのは、その数日後の6月7日であったと言われる。

勝家が信長の死を初めて知った時、秀吉は、既に姫路城にいたのである。
情報収集の段階で、勝家は、秀吉に負けていた。

この遅れは、強敵上杉軍と対峙する勝家にとっては、如何ともし難く、
しかも、かつて弾圧した一向一揆衆の怨みを呼び覚ます状態にあっては、
勝家が北陸を離れて畿内に遠征する等と言うことは夢物語に過ぎず、
秀吉が『山崎合戦』で光秀を討伐したのも当然であった。

勝家は、軍の編成を解除し、各武将に居城へ撤退するように命じた。
この時の勝家の意志が、上洛にあったのか、それとも、
一揆に備えるためであったのか、は不明である。

ただ、撤退に当たり勝家は、放生津で別離の宴会を開催した。

8日には、上杉景勝が越中国への攻撃を陣中に布告する。
富山城では、10日になって、一揆の攻撃に晒され苦境に陥る。
能登国でも一揆が起こり、前田利家から勝家と佐久間盛政に対して、
援軍の派遣が要請されたほどである。

13日、『山崎合戦』において、秀吉は光秀を討ち取り、
見事に仇討ちを成し遂げた。

一説には、16日の段階で、勝家は、柴田勝政等を前衛とし、
上洛部隊を率いて柳ヶ瀬に着陣していた、とも言う。
ただ、光秀の所在や行動に関する情報も得ていないであろう勝家が、
畿内の諸将と連携もせずに上洛を目指すと言うのは、
極めて不自然な説である。

戦後、織田家の方針を決める「清洲会議」で、勝家は、
信長の三男である織田信孝(神戸信孝)を信長の後継者に擁立するが、
秀吉は嫡流相続を主張し、信長の嫡男で『本能寺の変』で死去した織田信忠の子の
三法師(織田信秀)を推して認めさせる。

全てにおいて出遅れた勝家に、会議の主導権は無かった。

さらに信長の領地配分も行なわれ、勝家には秀吉の旧領北近江三郡が加増され、
光秀を討伐した秀吉には、山城、河内が加増された。

また、信長の妹の織田市が勝家の室となった。

この後、勝家は巻き返しを図る。
9月に、市を押し立てて、妙心寺において、信長の百箇日法要を営み、
織田氏重臣たる自らの立場を内外に示した。

また、勝家は、秀吉との決戦が避けられないものであり、
その決戦地となるのは湖東の地と睨んでいたものと思われる。

そこで、滝川一益、信孝と、事実上の同盟関係を結ぶ。
つまり、羽柴軍が湖東に出て来たら、その背後を滝川軍、側面を織田軍が、
それぞれ突くと言う構図である。

このため、11月に入ると、前田利家、不破勝光、金森長近の三人を、
山崎城の秀吉のもとへ派遣し秀吉との間の関係修復を試みる。
これは、北ノ庄城が雪に閉ざされる間の時間稼ぎであった。

だが、結果は裏目に出た。
秀吉のもとへ派遣した利家、勝光、長近は、
逆に揃って密かに秀吉に調略されてしまうのである。

しかも、秀吉は、勝家の領地の背後にいる上杉景勝と同盟を結び、
勝家の戦力の分散を図った上で、越前が雪に閉ざされると、すぐさま行動を開始する。
勝家側の城となっていた長浜城を攻め、城主の柴田勝豊を降伏させ、
続いて、美濃へ転進し、岐阜城を攻め、信孝を降伏させてしまった。

勝家も、これには相当焦ったはずである。
けれども、秀吉の背後には一益がおり、一益が温存されている限り、
まだ勝算は残されていた。

ところが、年が明けて天正11(1583)年正月。

突如として、一益が秀吉側の城に攻撃を加え出し、
秀吉に北伊勢に対する軍事行動の口実を与えてしまった。
結果、3月上旬には滝川軍は秀吉の前に駆逐される。

この報せに勝家は、前田利長を先鋒として南下を開始。
続いて、佐久間盛政、前田利家が出陣し、勝家も、3月9日に南下を開始。

4月になると、一転、一益と信孝が秀吉側の城へ攻撃を再開する。
勝家自身も羽柴軍の堀秀政部隊へ攻撃を開始したことで「挟撃態勢」が整い、
ここに『賤ヶ岳合戦』の火蓋が切られる。

この時、勝家は勝利を確信したのか、
毛利氏に、秀吉に対する挙兵の要請を行なう。
この点は「泥縄」との謗りを受けそうな勝家の外交感覚ではある。

この事態に、秀吉は湖東戦線から美濃の大垣城の救援に向かう。
これを見た盛政が、勝家に羽柴軍に対する奇襲攻撃を意見具申する。
勝家は、これを退けようとしたものの、盛政の具申の前に許可。

盛政の奇襲攻撃は成功するものの、
盛政部隊は、激戦に疲れ果て動けなくなり、
結果、羽柴軍の支配圏内に突出して留まる形となった。
そこへ大垣城から秀吉本隊が帰還して来る。

この秀吉本隊の動きと呼応するように、柴田軍の前線から突如として、
前田利家、不破勝光、金森長近の各部隊が戦線を放棄して離れてしまう。

羽柴軍は、盛政部隊を叩くと、その勢いで、柴田軍に総攻撃を開始。
さしもの勝家も、大混乱となった陣を前に、
これを支える術を知らず、遂に撤退。
4月21日のことであった。

惨めな敗走途中、勝家は僅か8騎を率いて、府中城で利家と対面。
勝家は湯漬けを所望した上で、秀吉との友情を優先させ、
自分への義理を捨てよ、と語ったと伝えられる。

ただし、利家が府中に辿り着いた21日夜から22日にかけては、
利家部隊と羽柴軍との間で激しい銃撃戦が繰り広げられており、
勝家と利家との間で実際に、そのようなやり取りが行なわれたのかは不明である。

北ノ庄城に戻った勝家は、城下の建物を全て焼き払って徹底抗戦の態勢を取り、
攻め寄せる羽柴軍を迎撃すべく何度も城外へ打って出た、と伝えられる。

一方で、22日には、市の三人の娘(茶々、初、江与)を城から逃している。

23日になって、羽柴軍は北ノ庄城を完全攻囲。

この時、北ノ庄城から降伏の申し入れがあり、
秀吉の陣中からも「勝家の助命」を嘆願する声も出たが、
秀吉は一顧だにせず、これを拒絶した。

ここに至り万策尽きたことを悟った勝家は、北ノ庄城天守に、
織田市をはじめ、側室、妾、10人以上の女共を集め、彼女たちを刺し殺した上で、
家臣80名と共に自刃した。

その最期は、市等の女たちを刺し殺した後、
刀を自分の左脇腹に突き立て、そのまま腹をかき斬って、
体内の内臓を掴み出した上で、介錯に頚を落とさせた、と伝えられ、
真に武将らしい天晴れな最期であった。

北ノ庄城天守は、勝家の命令で火が放たれ、その炎は北の空を紅蓮に染めた。
一説には、天守には火薬が仕掛けられてあり、燃え盛る炎が引火し、
何もかもが跡形無く粉々に吹き飛んだとも言われる。

勝家の辞世として、市の辞世に応えて詠んだとされるものが伝えられる。

夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ やまほとゝぎす

これが、勝家の辞世であるとする確かな確証は無いが、
柴田勝家の名は、日本史上に刻まれている。


柴田勝家は、前田利家たちから
「親父様」と呼ばれ慕われる「情」の人であった。

ただ、その「情」が大きな仇ともなり、
『越中攻略戦』での柴田勝豊、佐久間盛政、佐々成政の諍いや、
さらには、勝家自身も成政との間で対立を引き起こす等、秩序を乱す根源となった。

また、『賤ヶ岳合戦』の前哨戦で、勝豊が秀吉に降伏したのも、
新年の宴の席で生じた盛政との諍いを根に持っていたから、と言われる。

恐らく記録には残されていないような些細な確執が、
勝家の周囲を取り巻く諸将たちの間には、積み上げられていたものと思われる。

そこからは、人の心の細やかな機微を斟酌することを苦手とする勝家の姿が垣間見える。

さらに、『賤ヶ岳合戦』で、盛政の暴走とも言える奇襲攻撃を止められなかったのも、
勝家が「情」を優先させてしまったからであった。

「情」は時として「公平性」を失わせるものであり、
「情」は受けた者を慢心させ、「情」を受けない者を責める。
そして、何より「理」を持たない「情」は人の心を離れさせるだけである。

「鬼柴田」と呼ばれ、武勇を誇った勝家は、
主に一向宗門徒を相手として殺戮を繰り返す戦いを続ける中で、
いつしか人の心が見えなくなっていたのかも知れない。

けれども、織田信長亡き後、たった一人で、織田氏を支えようとした、
柴田勝家の「義」が、その輝きを失うことは永遠に無い。

『賤ヶ岳合戦』から1ヶ月もしない時点で、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、小早川隆景に宛てた書状に、
日本之治此時候
と書き記していることを見てもわかるように、
秀吉にとって、勝家は最初に越えねばならない
偉大な武将であった。

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年表
  父・柴田義勝とも言われるが不詳。

<天文18(1549)年>
 3月、織田信秀の葬儀に参列。

<天文21(1552)年>
 8月16日、『萱津合戦』。

<天文23(1554)年>
 7月18日、『清洲城攻略戦』。

<弘治2(1556)年>
 8月23日、名塚へ出陣。
 8月24日、『稲生合戦』。

<弘治3(1557)年>
 11月2日、信行、信長に謀殺される。

<永禄11(1568)年>
 9月7日、『六角氏征伐戦』。
 9月28日、『西岡平定戦』。
 9月29日、勝龍寺城攻略。
 9月30日、山崎攻略。
 10月2日、『北摂平定戦』。

<永禄12(1569)年>
 8月20日、『北伊勢平定戦』。
 8月28日、『大河内城攻略戦』。

<元亀元(1570)年>
 4月25日、『越前朝倉氏討伐戦』。
 4月28日、浅井長政、謀反。
 4月30日、信長、帰京。
 5月9日、信長、岐阜城へ出発。
 5月12日、長光寺城を任される。
 5月21日、信長、岐阜城帰城。
 6月4日、『落窪合戦』。
 6月19日、信長、岐阜城出陣。
 6月21日、小谷城城下周辺に放火。
 6月28日、『姉川合戦』。
 8月22日、信長、長光寺に宿泊。
 9月21日、二条第を警護。
 9月25日、比叡山を攻囲。

<元亀2(1571)年>
 正月元旦、岐阜城で年賀。
 5月12日、『第一次長島一向一揆討伐戦』。
 5月16日、一向一揆軍に襲撃される。
 9月1日、『志村城攻略戦』。
 9月12日、『比叡山焼き討ち』。

<元亀3(1572)年>
 3月、「高屋城救援戦」。
 4月16日、「交野城救援戦」。
 7月21日、小谷城城下町を壊滅させる。

<天正元(1573)年>
 2月24日、「石山攻略戦」。
 2月29日、「今堅田攻略戦」。
 4月11日、「近江百済寺焼き討ち」。
 7月16日、「填島城攻略戦」。
 8月12日、「大嶽砦攻略戦」。
 9月4日、「鯰江城攻略戦」。
 9月24日、『第二次長島一向一揆討伐戦』。

<天正2(1574)年>
 正月元旦、岐阜城で年賀。
 3月27日、奈良奉行。
 7月、『第三次長島一向一揆討伐戦』。
 9月29日、一向一揆衆20000人を焼き殺す。

<天正3(1575)年>
 4月8日、『南河内攻略戦』。
 5月13日、『長篠合戦』。
 8月15日、『越前一向一揆殲滅戦』。
 8月18日、「鯖江城攻略戦」。
 9月2日、越前国内八郡と北ノ庄城を与えられる。

<天正5(1577)年>
 8月8日、総大将として加賀国へ出兵。
 9月23日、『手取川合戦』。
 10月3日、加賀国から帰陣。

<天正8(1580)年>
 閏3月9日、加賀侵攻開始。
 11月17日、加賀国平定。

<天正9(1581)年>
 2月24日、安土城へ参上。
 2月28日、京で執り行われた馬揃えに参加。
 3月15日、上杉景勝越中侵略の報に帰国。
 3月24日、上杉軍、撤退。
 7月11日、黄鷹6羽と石材を信長に献上。
 8月17日、前田利家、能登国内四郡を与えられる。

<天正10(1582)年>
 3月11日、『越中攻略戦」。
 3月13日、信長から指示書が出される。
 6月2日、『本能寺の変』勃発。
 6月27日、『清洲会議』開催。
 9月11日、織田市、妙心寺で信長の百箇日法要を営む。
 11月、前田利家、不破勝光、金森長近を秀吉のもとへ派遣。
 12月、羽柴秀吉軍、近江長浜城の柴田勝豊を攻撃、降伏させる。

<天正11(1583)年>
 3月9日、近江国へ出陣。
 3月12日、内中尾山に本陣を設営。
 4月4日、柴田軍、羽柴軍への銃撃を開始。
 4月5日、勝家本隊、堀秀政部隊を攻撃。
 4月6日、毛利氏に「対羽柴氏の挙兵要請」を行なう。
 4月16日、織田信孝、秀吉に対して挙兵。
 4月17日、秀吉、美濃国へ出陣し大垣城に入城。
 4月19日、佐久間盛政、勝家に「奇襲攻撃」を意見具申。
 4月20日、佐久間隊、奇襲攻撃を実施。秀吉、近江に戻る。
 4月21日、『賤ヶ岳合戦』で羽柴軍に敗北。
 4月22日、秀吉、越前国府中城に入城。
 4月23日、羽柴軍、北ノ庄城を完全攻囲。
 4月24日、北ノ庄城で自刃。

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜