蒲生氏郷

がもううじさと (1556〜1595)

略伝

戦国〜安土桃山時代。

織田氏家臣。
蒲生氏当主。

幼名「鶴千代」。「忠三郎」「賦秀」「教秀」。
キリスト教の洗礼を受け「レオン」。
蒲生賢秀の嫡男。

弘治2(1556)年、近江国蒲生郡日野に誕生。

永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭を擁し、
上洛しようと南近江を通過したのを拒んだのが六角氏であった。
六角氏の居城・観音寺城の支城である箕作城が織田軍の前に、
あっけなく攻略されると六角義賢・義治父子は逃亡。

六角氏の有力家臣であった蒲生賢秀は、
信長に臣従を誓い嫡子・鶴千代を人質として岐阜へ送る。
この鶴千代こそが後の氏郷である。

鶴千代は持って生まれた聡明さを信長に気に入られ、
岐阜城で元服し「忠三郎賦秀」と名乗る。

永禄12(1569)年8月、木造城で北畠具政が信長に叛旗を翻すと、
織田軍の一員として父・賢秀と共に伊勢国へ出陣し見事に初陣を飾る。
賦秀の才能に信長は惚れ込んだようで、この年には信長の娘・冬姫と婚姻し、
信長は婿となった賦秀を「わが小さき婿殿」と呼び可愛がり、
本拠地である日野城への帰還を許可した。

氏郷の室となった冬姫は婚姻当時は幼少であったが、
長じて絶世の美女になったと言われる。

元亀元(1570)年、
越前朝倉氏攻略戦が行われると、
柴田勝家の与力として父・賢秀と共に兵1000を率いて先鋒を務めた。
この時に勝家が指揮した部隊は総数5000で、勝家の直卒部隊は600であったという。
これから見ても当時の柴田勝家部隊の中に占める蒲生氏の位置が窺い知れる。
手筒山城攻略戦では父・賢秀の危地を救い敵兵の頚を取るなど活躍を見せる。

だがその後、浅井長政の謀反により、
窮地に陥った信長を日野城に迎え入れ岐阜帰還を護衛。
この功績を賞されて信長から父・賢秀との連名で加増される。
またこの頃、南近江の抑えとして長光寺城に置かれた柴田勝家の指揮下に入る。

天正元(1573)年、槇島城攻略戦、
さらに越前朝倉氏攻略戦では先鋒を務めるなど活躍。
天正3(1575)年に勝家が越前国北ノ庄城に封じられると勝家の下を離れ、
日野城に在って信長直属の旗本を務めた。

以後は畿内での軍事行動が主となり、
信長による天下統一のために粉骨砕身の働きを見せる。

天正10(1582)年に勃発した『本能寺の変』では、
安土城城番であった父・賢秀と共に安土城に居た信長の妻子らを、
蒲生氏の居城である日野城へ避難させ保護した上で、
明智光秀に対して徹底抗戦の構えを取っている。

天正11(1583)年、羽柴秀吉と連携し、
伊勢国の滝川一益の亀山城・峯城を攻略。
『賤ヶ岳合戦』前に秀吉の背後を固め戦況が有利になるように尽力する。
この年、飛騨守に任じられる。

天正12(1584)年の『小牧・長久手の合戦』でも、
秀吉方の有力な武将として織田信雄の伊勢国を攻略。
この功績により伊勢国南部12万石を与えられ松ヶ島城に入る。
この年に嫡男・鶴千代(のちの秀行)が誕生。

天正13(1585)年、紀伊国の平定戦で活躍し、この年に名を「氏郷」と改名。
さらに高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受け、
「レオン」というクリスチャンネームも得る。

天正14(1586)年には、
従四位下侍従に任じられ「松ヶ島侍従」と呼ばれる。
天正15(1587)年に行われた秀吉の『九州征伐』にも従軍し、
相婿の関係にある前田利長(利家の嫡男で正室は信長の娘・永姫)と共に、
豊前国巌石城攻略戦で活躍し、「羽柴」姓を下賜される。

天正16(1588)年には正四位下左近衛少将に任じられ、
この年、松坂城を築いて移ったことから「松坂少将」と呼ばれるようになる。

天正18(1590)年、『小田原征伐』参戦。
この合戦の最中に秀吉と前田利家が伊達政宗の処遇を巡り紛糾。
利家の立場が危うくなったのを浅野長政と二人で懸命に、
秀吉に対して取り成し、事を収めることに成功する。

小田原開城後、秀吉は東北地方の平定のために奥州に入り、
8月9日、会津黒川城において秀吉の東北経営策である「奥州仕置」を発表する。
この結果、氏郷は会津黒川を中心として会津四郡・南仙道五郡(12郡説あり)、
合計42万石を与えられた。

この氏郷の奥州への配置換えは伊達政宗を監視するという意味合いと、
氏郷を出来るだけ畿内から遠ざけたい、という秀吉の意志とされる。
この転封について氏郷は「これで天下を望むべくもなくなった」
と落涙して嘆いたと伝えられる。

氏郷は後に会津黒川を会津若松を改称しているが、
これは故郷である近江国蒲生郡の若松の森に因んで名付けたとも言われる。

氏郷が会津に封じられて間もなくの10月、
同じく「奥州仕置」によって大崎・葛西30万石に封じられた木村吉清の領地で、
秀吉に領地を没収された大崎義隆の旧臣たちが蜂起し『大崎・葛西一揆』が勃発。

氏郷は奥州仕置奉行であった浅野長政からの鎮圧軍派遣要請に応じ11月2日に出陣。
また伊達政宗も兵を率いて出陣し11月14日に氏郷と政宗は軍議を開き合意する。
だが翌日、政宗が「氏郷暗殺」を企図しているとの極秘情報がもたらされ、
氏郷は名生城を攻撃し陥落させるとそのまま兵5000と共に篭城した。

この氏郷の動きのため単独で軍事行動を取る伊達軍であったが、
11月24日、一揆軍は伊達軍が接近すると抵抗することなく退却。
これら一連の不審な動きの一部始終をつぶさに監視していた氏郷は、
さらに政宗から一揆方に出された直筆の檄文を入手したため秀吉に対して
「『大崎・葛西一揆』は政宗の謀略である」と報告した上で、
一旦、政宗と和睦した上で会津黒川へ帰還。

政宗は天正19(1591)年に秀吉から召集され、
有名な「鶺鴒の花押」の釈明で切り抜けることに成功し、
逆に氏郷が吉清を助けなかったことを叱責されることになってしまう。
吉清は領地を没収され、その領地は政宗が手にする。
一方、氏郷は失意の吉清を家中に迎える。

またこの年、九戸政実が叛乱を起こすが浅野長政らとこれを鎮圧。
その功績により185000石を加増され92万石の大大名となる。

文禄元(1592)年、『文禄の役』が始まると、
長駆、会津から肥前国名護屋城に参陣している。
名護屋城滞在中に前田利家と徳川家康の配下の者同士の衝突から、
両陣営が一触即発の事態に陥ったことがあったが氏郷はいち早く前田方に立ち、
家康と一戦も辞さずの構えを見せるなど利家の親衛隊的な立場であった。

だが翌文禄2(1593)年、突如として陣中で吐血し発病。
この時は堺の医師である宗叔の治療により容態を持ち直す。
8月には秀吉の仲介で前田利家の次男・利政と娘の婚姻が成立する。
その上で、一旦、静養のために会津に帰国する。

文禄3(1594)年、正月に伏見城完成祝いのために上洛。
4月には秀吉が返礼として完成したばかりの蒲生伏見屋敷を訪問。
秀吉は病状が再発し悪化する氏郷の様子を見て心配し利家に対して、
氏郷を当時の名医である曲直瀬道三に診せるように命じる。

文禄4(1595)年、伏見の蒲生屋敷で死去。
氏郷の最期を看取ったのは高山右近であったという。
辞世の句は「限りあれば 吹かねば花は 散るものを 心短き 春の山風」。
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氏郷の死についてはあまりにも突然のために「毒殺説」が出るほどである。

氏郷が亡くなった後の92万石という家督の相続について、
2月9日に、秀吉は、13歳の鶴千代(のちの秀行)による相続を認めたが
やはり奥州の抑えには心もとないと思ったのか6月頃になって、
鶴千代を近江国日野2万石に転封しようとしている。

この秀吉の処置に猛烈に怒ったのが前田利家であった。
利家は病気と称して一切の公務を休み、妻・まつを通して、
秀吉の正室・おねに鶴千代の近江転封を防ぐように願い出ている。
またかつて東北で氏郷と共に戦陣に在った関白・豊臣秀次からの反対もあり、
秀吉は鶴千代の転封話を撤回せざるを得なかった。

氏郷は死してなお多くの心ある武将たちの中に生き続けていたのである。


氏郷は「利休七哲」の一人として名を残すほど文武両道に秀い出た武将であった。

敵方の旧臣の子でありながら、
信長に見込まれ婿として優遇されるなど極めて優秀な武将であった。
また単なる武功に頼る武将でなく時勢を冷静に見極めて、
状況を判断する政治力をも併せ持っていた。

信長の下で婿として「天下布武」に奔走し、
信長の横死後に台頭した秀吉をいち早く支持し、
秀吉の「天下統一」のために尽力し戦場を駆け巡っている。

信長亡き後には妻・冬姫の妹を、
養女として引き取って秀吉の側室に送り込み(三ノ丸殿)、
さらに自分の妹・とらを秀吉の側室とし(三条殿)、秀吉との関係を強化している。
また自らの娘を前田利家の次男・利政の室にするなど、
槍働きだけでなく閨閥も大いに利用している。

聚楽第で諸大名との雑談の中で、
秀吉の後継者についての話題が出た時に、
「徳川家康」という意見を退け「前田利家である」と言い放ち、
「利家がダメなら次は自分の天下である」と豪語したとも言われる。
 (C)よろパラ 〜文学歴史の10〜
だが「奥州仕置」によって、
会津黒川(のち会津若松)に転封させられ、
近畿から遠く離れた馴れない土地と人民の掌握に腐心し、
さらに煮ても焼いても食えない伊達政宗と対峙しなければならない情勢は、
氏郷と言えども心身共に疲労の極致に追い詰められ寿命も縮めたはずである。

氏郷の没後、未亡人となった冬姫に対して、
秀吉は自分の側室になるように迫ったが冬姫は出家し断ったと言われる。
これがために慶長3(1598)年正月、秀行は会津若松92万石から宇都宮18万石へ
転封されたと広く喧伝されるが、実際は蒲生氏の家中で生じた家臣同士の内紛に、
危機感を覚えた秀吉と石田三成ら奉行たちが手を打ったものと思われる。

もし氏郷が長命を得ていたら、
その後の日本史は大きく変わったかも知れない。
誰もがそう思わずにいられないほど「才覚」と「武勇」を備えた武将であった。

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年表
父:蒲生賢秀。

<弘治2(1556)年>
 誕生。

<永禄11(1568)年>
 9月7日、織田信長、上洛のため岐阜を出発。
 9月11日、織田軍、近江国愛智川に布陣。
 9月12日、織田軍、箕作城攻略戦。六角定頼、逃亡。
 9月、織田信長に降伏した父・賢秀より人質として岐阜城へ送られる。

<永禄12(1569)年>
 8月20日、伊勢国侵攻戦。
 10月3日、大河内城開城。

<元亀元(1570)年>
 4月20日、越前朝倉氏攻略戦。
 4月25日、手筒山城攻略戦。
 4月28日、浅井長政、謀反。
 5月10日、岐阜へ帰還する信長を日野へ迎え入れ護衛。
 5月15日、父と共に加増される。

<天正元(1573)年>
 4月8日、近江国鯰江合戦。
 7月18日、山城国槇島城攻略戦。
 8月13日、越前朝倉氏攻略戦。
 8月20日、朝倉義景、自害。
 8月26日、近江国小谷城攻略戦。
 9月1日、浅井長政、自害。

<天正2(1574)年>
 7月、伊勢長島一向一揆殲滅戦。
 9月29日、伊勢長島一向一揆壊滅。

<天正3(1575)年>
 5月21日、『長篠合戦』。
 9月、柴田勝家、越前国転封。

<天正6(1578)年>
 8月15日、安土城内相撲大会の奉行。
 10月、摂津国伊丹城攻略戦。

<天正7(1579)年>
 4月29日、塚口砦に布陣。

<天正9(1581)年>
 正月15日、左義長の爆竹奉行。
 9月3日、伊賀国侵略戦。
 9月11日、伊賀国完全制圧。

<天正10(1582)年>
 正月15日、左義長の爆竹奉行。
 2月3日、武田氏攻略戦。
 6月2日、『本能寺の変』勃発。
 6月3日、信長の身内を安土城から日野城へ移す。
 12月29日、日野に条例を公布。

<天正11(1583)年>
 2月、羽柴秀吉方に組し滝川一益の伊勢国亀山・峯城を攻略。
 飛騨守、任官。

<天正12(1584)年>
 3月、『小牧・長久手の合戦』。
 3月15日、伊勢国松ヶ島城を攻囲。
 4月12日、伊勢国峯城攻略戦。
 4月17日、父・賢秀、死去。
 6月13日、南伊勢に12万石を領し、松ヶ島城に移る。
 8月14日、伊勢国口佐田城攻略戦。

<天正13(1585)年>
 3月10日、紀伊国雑賀衆・根来衆殲滅戦。
 3月23日、根来寺焼き討ち。
 3月24日、太田城水攻め開始。
 8月、越中国佐々成政討伐戦。

<天正14(1586)年>
 11月、従四位下侍従。

<天正15(1587)年>
 3月1日、『九州征伐』。
 6月19日、「バテレン追放令」発布。
 7月、羽柴姓を与えられる。
 10月、北野大茶会。

<天正16(1588)年>
 4月15日、正四位下左近衛少将。

<天正18(1590)年>
 3月、『小田原征伐』兵2300。
 3月29日、韮山城攻略戦。
 7月6日、小田原城開城。
 7月17日、秀吉、奥州へ向け出陣。
 8月9日、「奥州仕置」、会津黒川42万石に転封。
 10月16日、『大崎・葛西一揆』勃発。
 11月2日、会津出陣。
 11月14日、伊達政宗と軍議。
 11月15日、政宗による「氏郷暗殺」計画を知り名生城に兵5000と篭城。
 12月、秀吉に対して「政宗謀反の疑いあり」の密書を送る。
 12月15日、政宗と和睦。

<天正19(1591)年>
 正月、会津帰還。
 2月9日、木村吉清の領地は秀吉に没収される。
 2月28日、千利休、自刃。
 3月13日、『九戸の乱』勃発(2月説あり)。
 6月20日、豊臣秀次・徳川家康、『九戸の乱』鎮圧のために出陣。
 7月4日、政宗、『大崎・葛西一揆』鎮圧。
 7月24日、会津出陣、兵30000。
 8月7日、浅野長政と合流。
 9月1日、攻撃開始。
 9月4日、『九戸の乱』平定。18万5000石加増。

<文禄元(1592)年>
 3月、肥前国名護屋に出陣。

<文禄2(1593)年>
 正月、吐血。
 8月、娘を前田利政と婚姻させる。
 11月、会津へ帰国。

<文禄3(1594)年>
 正月、上洛。
 4月、伏見の蒲生屋敷完成。
 4月14日、秀吉、蒲生屋敷を訪問。
 11月、秀吉、蒲生屋敷を訪問。

<文禄4(1595)年>
 2月7日、伏見で死去。法号・昌林院殿高岩忠公大禅定門。

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜