【略伝】

戦国~安土桃山時代。

豊臣氏家臣。

従五位下。
刑部少輔。

「紀之介(紀介)」。
父については、諸説あり未詳。
母は、東殿。
子に、大谷吉勝(大谷吉治・大谷大学助)、木下頼継、大谷泰重、竹林院(真田信繁の室)。
大谷氏。

大谷吉継は、永禄2(1559)年に誕生した、とされる。

吉継の生母は、羽柴秀吉の正室である北政所の側近である東殿として有名であるが、父については豊後国大友宗麟の家臣であった大谷盛治であるとか、近江国六角義賢の家臣であった大谷吉房である、とも伝えられるが明確でない。

吉継の出生地や幼少時代を過ごした地、さらに、元服した時期等の確かなことは一切が不明である。

その吉継の足跡が日本史上に見えるのは、織田信長を『本能寺の変』で葬った明智光秀を『山崎合戦』で破った秀吉が、柴田勝家と信長亡き後の主導権を巡り軍事衝突しようとする、まさにその時であった。

天正11(1583)年4月16日、美濃国今尾城城主の吉村又吉郎に対して、羽柴方に味方するように書状を出している。また、戦闘地域において羽柴軍が無事に展開、及び、作戦行動が出来るように工作を行っていたとも言われる。

どのようないきさつで、吉継が、秀吉の家臣となったのかは全くの不明である。ただ、秀吉の長浜城城主時代に、母の東殿が、秀吉の妻のおねの側近となっており、その縁故で家臣となったものと考えられている。

その上で、同月21日、『賤ヶ岳合戦』が開戦するや、先懸衆として、柴田軍の有力部隊である佐久間盛政部隊に斬り込む活躍を見せた、とされる。

天正13(1585)年7月11日、従五位下に叙され、刑部少輔に任じられる。以後、「刑部」は、吉継のことを指すこととなる。

9月、秀吉の有馬湯治に石田三成等と共に供奉している。同月14日には、秀吉のお供で、三成、増田長盛、千利休と共に顕如邸に立ち寄っている。天正13年時点で、吉継が、三成、長盛、利休等と並ぶ秀吉の奉行衆の一員であったことが判る。

天正14(1586)年、堺奉行補佐に就任。

この時期、大坂城下で人が斬殺される事件が相次ぎ、2月21日には、「(吉継が)千人を斬り、その血をすすっている」との噂が流れる。当時、「不治の業病(恐らくハンセン氏病。現在は完治する病気である)を治すには、千人の生血を飲むと良い」とされていた。従って、この噂から、吉継は、この頃には既に、不治の業病に罹患していたことが推測される。

なお、この吉継の噂について記す『宇野主水日記』は吉継のことを「小姓衆」としている。

天正15(1587)年3月1日、『九州征伐』が開始される。吉継は、この軍役において、三成等と共に兵站奉行を務めている。そして、兵糧や武器等の物資を常に途絶えること無く戦線の点在する諸部隊に行き渡らせ、作戦遂行に大いに貢献している。

天正16(1588)年4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉。

一方で、9月22日に、小早川隆景に上洛を催促する添状を出し、隆景が上洛すると、10月5日に、隆景の上洛を慰労する添状を出している。はっきりとはわからないが、吉継は、毛利一族の中の隆景への対応を担当していたのかも知れない。

天正17(1589)年、越前敦賀城城主に任命され5万石を領する。同時に、その周辺地域の豊臣氏の直轄領10万石の代官も命じられている。

時局は、秀吉の天下統一に向けて最終局面を迎えており、11月には、秀吉の命を受けて、徳川家康のもとへ使者として赴く。

吉継に与えられた任務は、「家康から『小田原征伐』の事前許可を得ること」であった。家康は、北条氏と縁組しており、その家康を説得することは、秀吉の天下統一の前哨戦とも言うべきものであった。吉継は、この大役を見事に果たす。

その上で、12月になって、初めての自分の領地である敦賀に入る。

しかし、居城でゆっくりする間もなく、天正18(1590)年2月には、『小田原征伐』が開始される。この戦役で、吉継が直率した大谷部隊は270名であった。

3月の「山中城攻略戦」では、吉継は、秀吉の本陣に旗本衆の一人として参加している。

5月27日、「館林城攻略戦」が開始されるが、この時、秀吉は、三成、吉継、長束正家等の奉行衆を指揮官に任命して、その下に関東諸将を付けて攻撃に当たらせている。奉行衆に「城攻め」を経験させることで、前線と後方との連携を研究させる目的があったのかも知れない。

大谷部隊は5600に増強され館林城の北方を受け持った。他に、三成が7000で西方、正家が6800で東方を、それぞれ分担している。彼らの指揮下に、佐竹義宣、結城晴朝、水谷勝俊、宇都宮国綱、多賀谷重経等が入っていた。

ところが、館林城の周囲が泥湿地帯であったために力攻めを残念し、北条氏勝を介して降伏勧告を行い、30日に、館林城は開城している。

その直後、6月、石垣山の築城に参加。

次いで、7月5日、「忍城攻略戦」に参加する。吉継は兵6500を率いて、三成の指揮下に入り、忍城の東南方面を担当している。忍城も周囲が泥湿地帯であった。しかし、館林城で戦闘らしい戦闘が行われなかったためか、力攻めを行う。

ところが、城代の成田泰季の防衛戦の前に翻弄されるだけであった。三成は「水攻め」を実施したが、折からの梅雨時のため堤防が決壊し、かえって豊臣軍に大排外が出るだけであった。結局、小田原城が開城するまで、忍城を陥すことは出来なかった。

一連の城攻めは「奉行衆は戦下手」と、結局、城を落とさず評判を落としただけであった。

しかし、奉行衆にとっては、「戦前」と「戦後」こそが真の腕の見せ所である。それを、裏付けるかのように、8月1日、吉継は、奥州仕置を命じられる。上杉景勝、木村重茲と共同で出羽国庄内三郡の検地を行っている。吉継は、検地の実務リーダーとして働き、秀吉の天下統一事業の総仕上げである「奥州仕置」に功績をあげる。

こうして進められる「太閤検地」を、出羽国仙北で農民たちが「邪政」として一揆を起こす等、反発も強かった。吉継は、景勝の応援を仰ぎ、これらの一揆を鎮圧し、色部長実を代官として置いて、10月に、帰京する。

文禄元(1592)年正月5日、秀吉の動員命令で、十一番隊に兵1200で配され、同隊の堀秀治、浅野幸長、木村重茲、丹羽長重等と共に、2月中に居城を出陣し名護屋城に向かうこと、とされた。吉継は、2月20日、京から出陣する。

3月13日には、石田三成、岡本重政(良勝)、牧村政之と共に舟奉行に任命される。各部隊の軍船、輸送船の運行管理、及び、錨地の確保に奔走する。日本史始まって以来の大艦隊の運営を任されたのである。

4月12日、小西行長が率いる第一隊が対馬を出陣、翌13日に、朝鮮に上陸し釜山へ攻撃を開始する。『文禄の役』の開戦である。その後、加藤清正等の部隊も続々と後に続き、日本軍は快進撃を続ける。

吉継は、5月4日、陣所で茶会を開く。数日後の7日には、増田長盛の陣所で茶会が開かれ、三成と共に出席している。舟奉行としての任務に一区切りついたことに対する慰労の意味合いがあったのかも知れない。

ところが、27日になって、秀吉が自ら渡鮮すると言い出したために、前田利家、徳川家康等が、秀吉を制止する事態となる。このため、秀吉は渡鮮をあきらめ、自分の名代として、石田三成、増田長盛、前野長泰、長谷川秀一、木村重茲、加藤光泰、そして、吉継の7名を選抜し朝鮮に送ることとする。なお、この7名の内、吉続、三成、長盛の三人は「三奉行」として秀吉から特別に扱われていることは留意すべきである。

かくて、吉継は、6月13日、石田三成、増田長盛、前野長泰等7名とともに在朝鮮軍の督戦奉行として朝鮮に渡り、7月16日に、漢城に到着する。

なお、京では、吉継や三成たちに加えて、前田利家も同行し渡鮮した、との噂が流布した。

さて、朝鮮に赴任した吉継たちは、伸び切った日本軍の兵站線の防衛と維持が想像以上に困難な状況であることに愕然としたに違い無い。敵地に突出した小西行長隊と加藤清正隊への補給は事実上不可能に近かったのである。

平壌を占領していた小西行長が、8月、明使を名乗る沈惟敬と休戦協定を結ぶ。

12月9日、吉継、三成、長盛の三奉行は、開城において、小西行長、宇喜多秀家、黒田長政、小早川隆景と軍議を開き、明との講和条件について話し合う。

文禄2(1593)年正月5日、明軍が平壌の小西隊に攻撃を開始。小西隊は、7日に平壌を撤退する。16日になって、三奉行、漢城において、宇喜多秀家、小西行長と軍議を開く。吉継は、この結果を持って、小早川隆景の陣へ自ら出向き作戦を伝え、漢城に部隊を退くよう説得している。

正月17日、日本軍、漢城に集結。

明軍の李如松が、日本軍の包囲殲滅を目論見進軍して来る。24日、日本軍は明軍を迎撃すべく、小早川隆景を指揮官として、吉川広家、立花統虎(立花宗茂)等、2万を先鋒として出陣させる。そして、宇喜多秀家を指揮官とする本隊2万1000に、吉継は三成と共に参加している。名高い『碧蹄館合戦』である。

『碧蹄館合戦』は、先鋒部隊の活躍もあり、明軍を翻弄し6000人余を殺戮し勝利した。しかし、局地戦の勝利では、戦局の流れそのものを大きく変えることは不可能であった。

2月18日、秀吉からの作戦指示書で、戦闘時には、大谷、石田、前野、加藤各部隊は遊軍として秀家の指揮下に入るように命じられる。同月27日には、吉継等の三奉行、秀家、隆景、行長、大友吉統、黒田長政は、秀吉の上使である熊谷直盛と軍議を開き、以後の決定は多数決に依り、これに従うと誓書に連名血判する。

3月3日、秀吉に対し、在鮮諸将十七将が連署し戦況報告書を提出する。この中で、兵糧不足を訴えっている。また、各部隊の人員数も調査されており、大谷部隊は1505名であった。

そして、行長が進める明との講和交渉に、三成、隆景等と共に参加する。また、この月に渡鮮した上杉景勝、由利五人衆等は、吉継の指揮下に組み込まれている。

吉継等三奉行は、4月17日、秀家、隆景、行長と共に、兵糧不足のためこれ以上の継戦は不可能と言う点で意見が一致し漢城からの撤兵を決定する。そして、18日に、漢城からの撤退を開始し後退する

5月1日、秀吉は、三奉行、浅野長吉、黒田長政に講和条件を指示し、晋州城攻撃と海岸沿いへの築城を命じる。

5月8日、三奉行と行長は、明使(謝用梓、徐一貫)を同行し釜山を出発。15日に、名護屋に帰還する。

一方、20日には、晋州城攻撃の部署が決まり、帰国中で吉継が不在の大谷部隊は秀家の指揮下に配される。

23日に、秀吉は、明使と会見。こうして、講和に向けた交渉が開始されたことを見届け、吉継は、翌24日には、渡鮮し戦場に戻る。そして、6月2日、在鮮諸将に対して、三成、及び、長盛との連名で褒賞に関する添状を出す。

6月21日、「晋州城攻略戦」が開始される。吉継は、自部隊の兵1535を指揮して参加。日本軍は、29日に、晋州城を攻略する。

8月3日、淀殿が、男子(豊臣秀頼)を出産する。早くも7日には、名護屋城下にまで誕生は知られており、秀吉も、名護屋城を15日に離れ、25日に大坂城に入っている。家康や利家も秀吉に従うように上方へ帰っている。

ここに、停戦講和の機運が高まり、在朝鮮の日本軍も防備を固め、守備兵以外の武将等が帰国することとなる。吉継も、9月に、兵1640人と共に帰還する。注目されるのは、渡鮮した時よりも大谷部隊の人員が増えていることで、恐らく朝鮮人捕虜(儒学者等)が含まれていたのではないかと推測される。

これ以降、吉継は、渡鮮することは無かった。

酷寒の朝鮮で体調を崩したものと思われ、朝鮮での激務に耐えられる状況になかったのであろう。そこで、秀吉は、吉継に国内での任務を与え、翌文禄3(1594)年、伏見城の普請奉行に任命している。このため、吉継は、築城に必要な資材の調達にあたっている。

また、同年には、吉継の娘(竹林院)が、真田昌幸の次男である真田信繁と婚姻している(文禄元年説あり)。さらに、昌幸、真田信之(昌幸の嫡男)、信繁の真田父子は、伏見城普請奉行に任命されており、この時期、秀吉の大名統制戦略下において、徳川家康の組下にあった真田父子が吉継との関係を深めたことは注目される。

文禄4(1595)年4月に羽柴秀保が急死し、7月15日には豊臣秀次が高野山で自刃した。秀次が自刃した直後の7月20日、利家が提出した秀頼に忠誠を誓う起請文の宛先は、三成、長盛、長束正家、前田玄以、宮部継潤、富田一白の6名であって、そこに、吉継の名前は無い。

そして、8月3日に出された「掟書追加九ヶ条」に拠って、有力大名である徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景が豊臣政権の運営に当たることとなる。所謂「五大老」の原型である(この時に上杉景勝を加える説もある)。

慶長元(1596)年正月23日、三成、長盛、正家、玄以が裁判の公平を誓って起請文を出している。ここに、実務を監督する奉行が揃う。

つまり、秀次自刃後に再構築された秀吉の描く「豊臣政権機構」に、吉継の名は無い。従って、このことから、当時、吉継の病状が相当に重いものであったことが伺えるのである。

9月、明との講和交渉が決裂する。この交渉の過程で、楊方亭と沈惟敬の明使から吉継は、「都督僉知」の明の官職が与えられている。

慶長2(1597)年7月、日本軍は再び渡鮮する。『慶長の役』の勃発である。病身の吉継が渡鮮することは無かったが、7月9日には、島津義弘に陣中見舞いを送っている。

9月24日、秀吉は、家康や織田長益を従えて、吉継の屋敷を訪問する。

吉継は、秀吉を迎えるに当たり、茶会、進物、饗宴、本因坊の囲碁対局等、考えられる限りのもてなしを行っている。その様子は、石高6万石(5万石とも)とは思えない豪華なものであった、と言う。この席で、吉継は、子の大谷吉勝の披露、もしくは、吉勝への家督相続に関することを行った可能性も考えられる。

また、秀吉を出迎えたのが吉勝であったことから、この頃の吉継は、もはや自由に体を動かせる状態になかったものと思われる。

秀吉は、吉継の病が重く余命少ないことを知り、これまで尽くしてくれたことへの感謝の気持ちを込めて、吉継の人生の終幕を飾るに相応しい華やかな舞台として自らの吉継邸訪問を企画したのではないだろうか。

そして、この秀吉の訪問こそは、記録に残る限りでは、吉継と秀吉の最期の対面となる。

慶長3(1598)年8月18日、秀吉が死去する。

前田利家が、慶長4(1599)年正月10日、秀頼を奉じて大坂城に入る。

同月19日、伏見の徳川家康邸を警護するために、吉継は、自分の兵を家康邸に派遣する。家康が、秀吉の遺命に背き独断で有力大名と婚姻を結んだことに対する大坂方の前田利家勢の詮議が武力衝突に発展しかねない状況に備えたものである。

21日には、家康を除く四大老と五奉行は、「秀吉の遺命」をないがしろにする家康に使者を遣り違約を非難したことで、家康側と利家側の対立はピークに達する。

家康の下には、吉継の他には、福島正則、黒田孝高、黒田長政、池田輝政藤堂高虎等が集まり、利家の下には、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、立花宗茂、そして、石田三成、小西行長等が集まった。

武断派が二分したことに危機感を持った清正、忠興、幸長が、家康と利家の間に入り調停に奔走した。同時に、この時点で、吉継が、武断派と行動を共にしている点は注目されるところである。

2月5日になって、家康と、四大老、及び、五奉行との間で、秀頼への臣従を確認する旨の誓紙が交わされ、29日に、利家が伏見の家康の屋敷へ、翌月11日には、家康が利家の屋敷をそれぞれ交互に訪問したことで、一連の騒動は収まる。

こうして、豊臣政権に平穏が訪れたかに見えたが、閏3月3日、利家が死去する。

利家の死を待っていたかのように、武断派の清正等が三成の襲撃を計画。これを家康が仲裁したことで、三成は失脚し、閏3月10日、佐和山城に蟄居する。

そして、13日に、家康は、伏見城に入城し政治を執る。このまま豊臣政権が安定しては困る家康は、豊臣政権を内部から瓦解させるべく「口実」を探し、上杉景勝に的を絞る。そして、8月になると、家康は、上杉景勝に上洛を求めるのである。

この家康の景勝への上洛要請に含みがあると見た吉継は、長盛を仲介とするよう働き掛けるが失敗する。

さらに、吉継が家康への抑えと期待した長盛は、正家と組んで、9月7日、「徳川家康暗殺計画」の首謀者が前田利長であると讒訴を行う有様であった。結果、浅野長政、大野治長、土方雄久が失脚し追放処分を受ける。

吉継は、10月2日には、島津家久に、浅野長政が武蔵国府中に蟄居、大野治長が下野流罪、土方雄久が常陸流罪になったことを知らせる。翌月3日、家康が「前田征伐」を宣言する事態に至る。このため、吉継は、利長に生母の芳春院を人質として江戸に送ることに同意するように説得している。

また、佐和山城に蟄居中の三成が城の改修を行っていることが公となり、吉継は、長盛と共に、10月、家康の使者として、三成を詰問する。

この頃の吉継は、秀吉の遺志通り「家康を中心とした五大老が秀頼を支える政体」こそが豊臣氏にとって最良の方策であると考えていたようである。

ところが、その吉継の考えを一変させる出来事が起こる。それは、同じ10月、吉継が、所謂「宇喜多家騒動」に、家康の重臣の一人である榊原康政と仲裁に入った際に起こった。

五大老のひとりであり、しかも、秀吉の養子であった秀家のために、吉継は、宇喜多家中が分裂しないように尽力していた、ところが、仲裁が長引くうちに、慶長5(1600)年正月、家康は、康政に対し「(宇喜多家の仲裁は)費用の無駄遣い」と罵倒し、康政に「宇喜多家騒動」の調停から手を引かせる。結果、宇喜多家中の内紛の調停は失敗する。

このことで、吉継は「自分の武士としての面子を家康に潰された」として深く恨みに思うようになって行く。同時に、五大老のひとりである秀家の家中を分裂させ弱体化を図る家康の姿に、はっきりと「家康こそは豊臣氏に仇なす敵」と見えたのである。

この慶長5年の年初は、家康の大坂城入城が、即ち、政庁そのものの大坂への移転であることから、諸大名も大坂城下への転居に忙殺された。

同年6月6日、家康は、上杉景勝に難癖(城の修築や上洛に応じないこと等)をつけた挙句、その難癖を口実として諸大名に対し「会津征伐」を宣言する。15日には、豊臣秀頼が「会津征伐」を公戦として認め、家康に脇差と軍資金(2万両と2万石)を下賜し、16日になって、家康は大坂城から出陣して行く。

吉継も、家康に従い「会津征伐」に従軍すべく、兵1000を率いて敦賀を出陣する。

病躯を押して吉継が出陣した理由は、家康と景勝との間を現地において仲介する目的だったものと思われる。吉継にとって景勝は、かつて「奥州検地」で暴動が起こった際に助けられた大恩があり、その景勝を絶対に見捨てない覚悟を秘めた出陣だったのであろう。

この出陣に際しては、三成から息子の石田重家を同行させてくれるように依頼があり、吉継は、7月2日に、美濃国垂井に到着すると、重家を大谷部隊に迎えるための使者を佐和山城に送る。すると、三成から吉継を佐和山城に迎える使者として柏原彦右衛門がやって来る。

訝りながら佐和山城を訪れた吉継は、三成から「家康打倒の挙兵計画」を打ち明けられた上で協力を求められる。

三成から決意を打ち明けられた吉継は、7日に一旦、佐和山城から垂井へ戻る。佐和山城に入ってから垂井に帰るまでに5日を要している。この間、吉継は、三成に対して、今、家康に叛旗を翻すことの不利を説き、豊臣家のため家康に忍従すべきことを訴えたものと思われる。

吉継は、三成に「正義」があることを知っていたが、家康の前に勝てるわけが無いことは重々承知していた。

それでも、吉継は、三成を捨て置くことは出来ず、なおも数日間に渡って、垂井で逡巡した。そして、意を決して、11日に佐和山城へ向かう。

その時、吉継の心の内には一点の曇りも無く、あるのは「秀吉への奉公」と「三成との友情」だけであった。

吉継は、挙兵するに当たっては、毛利輝元と宇喜多秀家を軍の将帥に頂き、その下で動くことを三成に提案した、とされる。そして、12日には、吉継、三成、増田長盛、安国寺恵瓊が集まり作戦会議を開く。

なお、この吉継と三成が佐和山城で行った一連の謀議についてのいきさつは、『落穂集』等の記述に頼るところが多くあまりにあてにはならないことは留意すべきである。また、吉継が垂井に10日以上も滞在した事実は、家康に警戒心を持たせることとなる。

14日になると、吉継は、敦賀に引き返す。これは、前田利長への対処のためである。

西軍(石田方)の総大諸に迎えた毛利輝元が、16日、大坂城に入る。翌17日、三成、正家、長盛の三奉行は、全国の諸大名に「打倒家康への参加」を求める檄文を発する。

しかし、19日には、長盛が家康に機密情報を届けている。長盛の利敵行為の結果、23日には、家康が先手を打って最上義光に対し、「治部(三成)と刑部(吉継)が虚偽の檄文を諸大名に送っているので騙されないように」と書状を出す等、手の内の全てを家康に知られている。

このような状況下の20日、前田利長に西軍からの檄文が届いている。

かつて、利長に対して生母の芳春院を江戸へ人質として差し出してでも家康に叩頭し恭順するように説得したことのが吉継であり、利長が西軍(石田方)に組して家康に敵対することが無いことは判っていた。それでも、利長に対して、石田方に付けば北国7ヶ国を与えることを、長盛と共に提案してみるが、案の定、利長は、この誘いに猛反発する

一方、吉継は、丹羽長重、山口正弘、青木一矩、赤座直保等、北陸の大多数の大名を石田方に引き入れている。

とにかく、徳川軍に次ぐ軍勢を持つ前田軍を畿内に入れないようにするのが、吉継の仕事であった。

22日、利長の弟の前田利政が兵7000(5000とも)を率いて七尾城を出陣する。そして、26日には、利長が兵2万を引きつれ金沢城を出陣し、越前を目指し北陸を南下して来る。そして、西軍に組した加賀国能美郡の小松城(丹羽長重)を攻囲する。

7月30日、真田昌幸に対して、上方で起こっている事情について知らせる。その上で、挙兵に至ったいきさつ、及び、昌幸と真田信繁の妻の身柄の安全を確保したことを急ぎ連絡している。その上で、西軍(石田方)に組するように誘った。

前田軍は転進し、8月1日、大聖寺城(山口宗永)を攻囲する。

2日、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政等と計2万が越前に集結する。そして、3日、大聖寺城の救援に出陣するが、その行軍中に、大聖寺城が陥落したことを知る。

このため、前田軍が目前に迫りつつあった西軍方の北ノ庄城(青木一矩)を救援すべきか、東軍の拠点である国府城(堀尾吉晴)を攻撃すべきか、軍議が開かれる、その席で、吉継は、北ノ庄城の救援を決める。

吉継は、北ノ庄城救援に際し大きな障害となる前田軍を排除するために計略を用いる。即ち、「西軍(石田方)が海路を使い、直接、金沢を襲う」と言う噂を越前国一帯に撒き散らしたのである。この噂の標的は、利長であった。

吉継の読み通り、利長は、この噂を真に受けた。前田軍は、ほぼ全兵力で出陣しているために、留守の金沢に西軍が上陸すれば、ひとたまりもなかったのである。このため、前田軍は退却を開始する。その隙を突いて、吉継は、4日に北ノ庄城に入る。

利長が、「西軍の海路進軍」を信じたのには、過去の伏線があった。それは、かつて、伏見城築城の際に、吉継が奉行として日本海沿岸の海路を使った資材運搬の指揮監督に当たっていたことを知っていたからである。つまり、加賀国のどこの港が兵員の上陸に適しているか、また、どう進軍すれば効果的に加賀国を侵略出来るかを吉継は掌握していたのである。

これがために、慌てた利長は、6日に大聖寺城に入ったのである。小松城下を通過する際には、丹羽軍から攻撃を受け被害を出してしまい、ようやくのことで、11日に、金沢城に帰ったのである。この日、三成等が大垣城に入城している。利長は、この直後、家康からの命令を受けて、東軍(徳川方)の主力と合流すべく再出陣するが、北ノ庄城を攻囲したところで『関ヶ原合戦』の決着がついてしまう。

つまり、吉継は、前田軍を北陸に封じ込め、その圧倒的な軍事力を無力化することに成功したのである。

23日には、西軍(石田方)の岐阜城が落城する。26日になると、三成から急使が来る。三成から「京極、脇坂等を指揮して関ヶ原近辺に来るように」と言うものであった。

こうして、家康との決戦が目前となった時点で、吉継は、脇坂安治、脇坂安元、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政等を率いて、9月3日(2日とも)に、美濃国に入り関ヶ原に展開する。布陣地点は、山中村の高台であった。

北ノ庄城に入ってから関ヶ原に展開するまでの約1ヶ月間に及び期間の吉継の動静は全くの不明である。一般には、北陸方面の調略に当たっていたとされるが、やはり、体調を崩していたのではないだろうか。

さて、関ヶ原に到着してからの吉継は、関ヶ原に小早川秀秋が到着していないことに注意を払ったはずである。三成たちも秀秋を疑い糾問使を派遣する等したが、かえって疑いは深まるばかりであった。

その秀秋は、14日になって、関ヶ原に到着すると松尾山に登り、そのまま布陣した。

この日、時間は不明であるが、吉川広家が吉継の陣を訪れ、秀秋の裏切りを警告する。このため、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠の四隊を小早川に備えさせた。同時に、大垣城の三成に「秀秋の裏切り必至」の急使を送る。

夜になると、三成等の大垣城に入っていた部隊は、東軍(徳川方)が大垣城を通過し近江方面に抜ける動きを見せたことに吊り出されるようにして、大垣城から関ヶ原に転進して来る。

三成は木下頼勝を呼び出し作戦の概要を知らせているが、それでも単騎自ら吉継の陣を訪れて、最後の確認を行っている。

二人が何を語らったのか何も判らない。ただ、吉継と三成にとって、これが最期の対面となった。

三成との対面を終えた吉継は、秀秋の陣に赴く。秀秋に向かい、「御養子衆の中でも太閤殿下は公を愛された」ことを切々と説き、三成以下の奉行衆が秀秋の行動に疑念を抱いていることを告げ、「太閤殿下の御恩に報いるのは今ですぞ」と諭した。しかし、秀秋は何も答えず、ただ、重臣たちが当たり障りの無い返事をよこすのみであった。

吉継は、重臣たちに「道理を違えることの無いよう」に念を押すが、秀秋の裏切りは確実と見て取った。同時に、小早川隊に備えて、松尾山の北方の藤川台に陣を移し、本道から八町下がったところに柵を築いて中仙道を塞いで布陣し直したのである。この時の吉継部隊は、本隊の兵600、それに、.大谷吉勝(兵900)、木下頼継(兵750)、平塚為広(兵360)、戸田重政(兵300)の各部隊で構成されていた。

それは、1万5675の小早川隊を、3000足らずの自らの兵と、脇坂安治(兵990)、小川祐忠(兵2100)、朽木元綱(兵600)、赤座直保(兵600)の各部隊とで防ぐ計画であった。

しかし、吉継は、この日、藤堂高虎の密使が、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠の各陣を訪れていたことは知らなかった。安治は、吉継の下で北陸に入る前から高虎に通じ、吉継の動向を逐一報告していたのである。

運命の15日、井伊直政隊が宇喜多秀家隊に鉄砲を放ち火蓋は切られた。

と同時に、大谷隊の先鋒が前進。すると、それを見た藤堂高虎隊(兵2500)、京極高知隊(兵3000)、織田長益隊(兵450)が大谷隊に殺到して来る。大谷隊は、藤堂隊と京極隊を引き付け応戦。そこへ戸田隊と平塚隊が掛け付け、藤堂隊と京極隊の側面から背後に回り込み猛烈な攻撃を掛け、藤堂、京極、織田の各隊を混乱に陥れ退却寸前に追い込んでいる。

東西両軍が衝突する中、小早川隊は傍観するのみで、吉継を始め三成たちも戦闘参加を促す急使を送ったものの秀秋は動かなかった。

やがて、家康からの威嚇射撃を合図に、秀秋は吉継隊への突撃命令を下し小早川隊は雪崩を打って吉継隊に襲い掛かった。秀秋を最初から疑っていた吉継は慌てることなく正面から応戦し、戸田隊と平塚隊は小早川部隊前衛の側面に回り込み激しく攻め立て、逆に小早川隊を500メートルも後退させ追い散らした。

このため、秀次自ら本隊を指揮して進んだが、大谷部隊は80名の犠牲を出しながらも、370名余を討ち取る戦いぶりを見せる。統制の取れなくなりた狼狽し立ちすくむ小早川部隊であった。

が、この時、吉継ですら予想だにしていない事態が発生する。

ここまで戦闘に参加していなかった脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保の各部隊が、藤堂高虎の合図をきっかけに揃って東軍に寝返ったのである。これら裏切り部隊が、戸田隊、平塚隊の側面に殺到したところへ、態勢を立て直した小早川隊、さらに、藤堂高虎隊(兵2490)、京極高知隊(兵3000)も押し寄せた。

圧倒的な兵力で攻め寄せる東軍部隊の前に戸田隊と平塚隊は壊滅し、吉継と共に奮戦していた戸田重政と平塚為広は討ち死にを遂げる。

為広は、自ら討ち取った敵の頚を吉継に届けた上で「敵に吉継の頚が取られないよう注意されたし」と伝言し辞世の歌を贈った。

名のために 捨つる命は 惜からじ つひにとまらぬ うき世と思へば

これに、吉継も歌を返している。

契りあらば 六のちまたに しばし待て 遅れ先立つ 事はありとも

この歌が吉継の辞世として知られるところであるが、一連の歌のやり取りが史実かどうかは不明である。

吉継隊の苦戦を見て、吉勝と頼継は、吉継の救援に向かおううと、自隊に方向転換を命じたものの、部隊を後退させる指示を見た配下の兵は撤退と勘違いしてしまい散り散りに逃亡してしまい、それぞれの隊は崩壊する。

吉勝と頼継は自刃を決めるが家臣に諌められ再起を誓い逃走する。

吉継は近侍する湯浅五助に何度も「負けか」と問い、「お味方の負けにございます」と遂に五助が答えたのを聞いて、乗っていた輿から上半身を乗り出し自ら脇差で腹を突き五助に介錯させ自刃する。

五助は、吉継の頚を東軍(徳川方)に見つからないように土中深く埋めた上で、東軍の大軍の中へたった一人で突撃し討ち死にを遂げる。

《関係略図》

 大谷氏
  │
  ┝━━大谷吉継┳吉勝(吉治)
  │      ┣頼勝(木下頼勝)
  │      ┣泰重
  │      ┗竹林院
  │        │
 東殿        │
           │
           ┝━━━━━━━━┳大助(幸昌)
           │        ┣大八
           │        ┣梅(生母を高梨内記の娘とする説あり)
           │        ┣くり(生母を高梨内記の娘とする説あり)
           │        ┣菖蒲
           │        ┗かね
           │
           └───────┐
                   │
     真田昌幸┳信幸(信之)   │
         ┣信繁       │
         ┃││       │
         ┃│└───────┘
         ┃└────────┐
         ┣信勝       │
         ┗昌親       │
                   │
                   ┝┳幸信
                   │┗御田姫
                   │
     豊臣秀次┳仙千代丸     │
         ┗女子(隆清院)  │
           │       │
           └───────┘

大谷吉継は有名な武将でありながら謎の多い武将でもある。

その父親については、豊後大友氏の家臣説、近江六角氏の家臣説、京都青蓮院の坊官説等、様々な説があるが、どれも決め手となるものは無く正確なことは不明である。

誕生年も、一般には永禄2(1559)年とされるが諸説あり、はっきりしない。

幼名についても、「桂松(慶松)」が吉継の幼名とされている。「桂松」を吉継の幼名とするのは、吉継の没後70年以上も経った後に書かれた『武家事紀』の記述が有名である。ただし、『武家事紀』は、吉継の渡鮮時期を『慶長の役』としている等、吉継に関する記述は全くアテにならない。

「慶松」については、天正3(1575)年頃に、蜂須賀正勝の使者として美作国の草苅氏に対する織田信長の朱印状を山伏姿に変装して運んだ「大谷慶松」なる人物を、吉継のこととするものである。もっとも、「吉慶」なる人物について書かれているのは朱印状そのものでは無く、朱印状に付けられていた単なる覚書の記述に拠るものである。それ以外に、「慶松」を吉継の幼名とするのは、主に江戸時代の歌舞伎や役者絵に拠るものである。

「桂松(慶松)」を幼名とするには、さらなる調査が必要と考えられている。

吉継が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣となったいきさつも、石田三成のような「逸話」も残されておらず、全くの不明である。恐らくは、母の東殿の縁故での出仕であったろうと推測されるのみである。

『賤ヶ岳合戦』での勇ましい吉継の武功も、一柳直末、一柳直盛の軍功を伝える『一柳家記』等に記されるところに拠るものであって、最近では史実とする見方は少ない。

吉継の事績で、はっきりしていることは、諸勢力との交渉や、軍事作戦における兵站任務、さらに、検地奉行と言った裏方の実務を行っていたことである。このことから「勇猛な武将」と言うよりも、石田三成と並ぶ「有能な奉行」と言うのが、吉継の実像であったろうと推測される。

天正14年前後には、吉継が業病に罹患していたことが伺える。

例の「千人斬り」の犯人として噂が流れたことからも吉継の罹患が裏付けられる。なお、秀吉にも、吉継を犯人とする噂は達していたが、吉継を問い詰めるようなことは一切していない。この秀吉の思いは、吉継が持つ「秀吉への忠誠心」を絶対的なものへと昇華させて行く。

天正15(1587)年の『九州征伐』の際に、安芸国の厳島で豊臣秀吉が開いた歌会において、諸将が歌を詠んでいるが、この時、秀吉が詠んだ歌は、

ききしより ながめにあかぬ 厳島 見せばやとおもふ 雲の上人

であり、吉継の歌は、

都人に ながめられつつ しま山の 花の色香も 名こそたかけれ

である。この歌が史実であるかどうかは不明ではあるが、「眺め」と「島」の同じ語句が使われていたり、秀吉の「雲の上人」と吉継の「名こそたかけれ」が響きあう内容である等、秀吉と吉継の強い主従関係が伺える歌である。

この『九州征伐』では日本史上前例の無い兵站線の構築を成し遂げる等、吉継と三成のコンビネーションは、秀吉の天下統一を裏方で支える大きな原動力となった。

『小田原征伐』では、奉行衆も兵を指揮して戦闘しており、吉継も兵を指揮している。

『小田原征伐』に続く奥州検地で本領を発揮したが、その際、上杉景勝と友誼を結んでいる。吉継と景勝は、共に「義」を重んじる武将であり、互いに判り合える部分が大きかったのであろう。

そして、『白村江の戦い』以来となる日本軍の海外出兵となった『文禄の役』では、奉行として朝鮮に渡った。この最前線での激務と朝鮮の過酷な気候が、ここまで業病の身を奮い立たせていた吉継の体を痛めつけ、遂には第一線から身を引くこととなる。

軍紀物の記すところであまり信憑性は低いが、この頃、大坂城の山里丸で茶会が開かれた。

席には、明との講和に関わる武将たちが並び、当然、吉継も出席していた。そして、吉継に茶碗が回って来た時、うっかり吉継は鼻水(病気の膿とも)を茶碗に落としてしまったのである。次に控える小西行長に茶碗を渡すことも出来ず、どうしようも無い窮地に陥ってしまった。

まさに、その刹那、突如として秀吉が「喉が渇いた」と言って、茶碗を奪い取り、一滴残らず飲み干し、茶碗を替えて何事も無いように、また茶を立てた。この秀吉の優しさに、吉継は、夜になってから一人布団の中で男泣きに泣いた、と伝えられる。なお、吉継の茶を飲んだ人物を、秀吉では無く三成とする話もある。

その吉継の屋敷を、秀吉自ら訪問したのが、慶長2(1597)年9月のことである。

歴史に「もし」は許されないが、それでも、もし吉継の病状が重くなければ、秀吉は、吉継を奉行衆の筆頭クラスに起用したことは間違いなかったであろう。だが、秀吉の目の前にいる吉継は病と懸命に戦い続ける悲壮な姿であった。

吉継と秀吉との間で、どのような会話が為されたのか具体的なことは判らない。二人だけで対面する場面があったのかも不明である。業病の前に足腰も思うように立たず皮膚が糜爛した吉継と迫り来る老いの影に怯える秀吉・・・この二人は、これが今生の別れとなるかも知れないと言う不安の中で、かつての天下統一を目指し苦労を共にした時間を振り返る昔話に花を咲かせたのではあるまいか。

それからおよそ1年後、先に逝ったのは、秀吉であった。

秀吉亡き後の政体については、秀吉の遺言通り「五大老五奉行」の合議制を維持すること、とりわけ、家康を中心に取り込むことこそ肝要と吉継は考えていたようである。実際、家康が前田利家と対立した時には、他の奉行たちとは一線を画して、家康の護衛に付いている。

その「家康重視」と言う吉継の考えが改まったのは、家康が「宇喜多家騒動」を利用して宇喜多秀家の家臣団を分裂させ弱体化を図り、因縁を吹っかけて上杉景勝を「豊臣政権の敵」としたこと(『会津征伐』)が続いたからである。即ち、家康が「五大老五奉行」の解体を開始したからに他ならない。

そして、佐和山城で三成から「家康打倒」の決意を聞かされた時、吉継は、その三成の決意が無謀なものであることを、すぐに悟ったことであろう。だからこそ思い留まるように、三成を説得した。それでも揺るがぬ三成の決意の前に、今度は吉継が悩む。

吉継は、若き日に共に苦労を重ね、いわゆる武将派との抗争にも屈しなかった無二の親友三成への「友情」と、何よりも自分を取り立ててくれた亡き秀吉から受けた「大恩」のために死のうと思ったに違いない。

この頃には吉継の業病はかなり悪化し、両目ともにほぼ光を失っていたと言われる。だが、吉継には人の心が誰よりもよく見えていたに違いない。

これ以降、『関ヶ原合戦』で吉継が自刃するまでは記述の通りである。

ただ、その中で、吉継と小早川家との関係が注目される。吉継は、毛利家中との交渉において、小早川隆景との交渉が多かったことが知られている。あるいは、吉継は小早川家との取次ぎ役であったのかも知れない。それは、三成や秀家等の西軍(石田方)の幹部たちが送った使者が小早川秀秋との面会が叶わなかったのに、吉継は秀秋とすぐに面会出来ていることから見ても裏付けられそうである。

つまり、小早川家中に吉継と昵懇にして情報を提供する者がいてもおかしくは無く、これらの事情から、秀秋が東軍(徳川方)に通じていることを察知していた可能性も有り得る。小早川家との不思議な縁に感慨を覚えつつも、その小早川家の大軍勢に自らの少ない手勢で立ち向かうことこそが、最期の御奉公と決めた覚悟の果ての壮絶な戦いであった。

大谷吉継は、「豊臣秀吉の家臣」として戦い戦場に散ったのである。

『関ヶ原合戦』を語るとき「大谷吉継」という男の義侠心に胸を打たれぬものはいない。大谷吉継は、この時代における最高の武将の一人であろう。

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【年表】

 父・不詳、母・東殿。

<永禄2(1559)年>
 誕生。

<天正11(1583)年>
 4月16日、美濃国今尾城城主の吉村又吉郎に羽柴方に味方するように書状を出す。
 4月21日、『賤ヶ岳合戦』。

<天正13(1585)年>
 7月11日、従五位下刑部少輔に叙任。
 9月、秀吉の有馬湯治に石田三成等と共に同行。
 9月14日、秀吉のお供で顕如邸に立ち寄る。

<天正14(1586)年>
 堺奉行補佐。
 2月21日、「千人を斬りその血をすする」との噂が名流れる。

<天正15(1587)年>
 3月1日、『九州征伐』。石田三成と兵站奉行を務める。

<天正16(1588)年>
 4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉。
 9月22日、小早川隆景に上洛を催促する添状を出す。
 10月5日、小早川隆景に上洛を慰労する添状を出す。

<天正17(1589)年>
 越前敦賀城城主に任命され5万石を領する。
 11月、徳川家康のもとへ使者として赴く。
 12月、敦賀に初めて入る。

<天正18(1590)年>
 2月、『小田原征伐』開始。
 3月28日、「山中城攻略戦」。
 5月27日、「館林城攻略戦」。
 5月30日、館林城開城。
 6月、石垣山築城。
 7月5日、「忍城攻略戦」。
 8月1日、奥州仕置を命じられる。
 10月、帰京。

<文禄元(1592)年>
 正月5日、陣立て。十一番隊1200。
 2月20日、京から出陣。
 3月13日、舟奉行。
 3月、『文禄の役』。
 5月4日、陣所で茶会。
 5月7日、増田長盛の陣所で茶会。三成と共に出席
 6月13日、在朝鮮軍の督戦奉行として朝鮮に渡る。
 7月16日、漢城に到着。

<文禄2(1593)年>
 正月16日、三奉行、漢城において、宇喜多秀家、小西行長と軍議。
 正月17日、日本軍、漢城に集結。
 2月18日、秀吉からの作戦指示書で、戦闘時には宇喜多秀家の指揮下に入るように命じられる。
 2月27日、三奉行、秀家、隆景、行長、大友吉統、黒田長政は、秀吉の上使の熊谷直盛と軍議を開く。
 3月3日、秀吉に対し、十七将が連署し戦況報告書を提出する。
 3月、明との講和交渉に参加。
 4月17日、三奉行、秀家、隆景、行長は、兵糧不足のため漢城からの撤兵を決定する。
 5月1日、秀吉は、三奉行、浅野長吉、黒田長政に講和条件を指示し、晋州城攻撃と海岸沿いへの築城を命じる。
 5月8日、三奉行、行長は、明使(謝用梓、徐一貫)を同行し釜山を出発。
 5月15日、名護屋に帰還。
 5月20日、晋州城攻撃の部署が決まり、大谷部隊は秀家の指揮下に配される。
 5月23日、秀吉、明使と会見。
 5月24日、渡鮮。
 6月2日、在鮮諸将に対して、石田三成、増田長盛との連名で褒賞に関する添状を出す。
 6月21日、「晋州城攻略戦」。
 6月29日、晋州城攻略。
 9月、本土へ帰還。

<文禄3(1594)年>
 伏見城普請奉行。

<慶長元(1596)年>
 9月、和平交渉決裂。
 明から「都督僉知」の官職が与えられる

<慶長2(1597)年>
 7月、『慶長の役』。
 7月9日、島津義弘に陣中見舞いを送る。
 9月24日、秀吉、吉継の屋敷を訪問。

<慶長3(1598)年>
 8月18日、豊臣秀吉、死去。

<慶長4(1599)年>
 正月19日、伏見の徳川家康邸を警護するために兵を派遣する。
 閏3月3日、前田利家、死去。
 閏3月10日、三成、佐和山城に蟄居。
 閏3月13日、家康、伏見城入城。
 8月、家康、上杉景勝に上洛を求める。
 9月7日、長盛と正家が「徳川家康暗殺計画」の讒訴を行う。
 10月、家康の使者として増田長盛と共に石田三成を詰問。
 10月2日、島津家久に上方の情勢を知らせる。
 10月3日、家康、「前田征伐」を宣言。
 10月、「宇喜多家騒動」に榊原康政と仲裁に入る。

<慶長5(1600)年>
 正月、宇喜多家中の紛争処理を巡り家康と対立。
 6月6日、家康、「会津征伐」を宣言。
 6月15日、豊臣秀頼、家康に脇差と軍資金(2万両と2万石)を下賜。
 6月16日、家康、大坂城を出陣。
 7月2日、美濃国垂井、到着。 石田三成の長子・重家を同行させるため使者を佐和山城に送る。
 7月7日、佐和山城から垂井へ帰還。
 7月11日、佐和山城へ入る。
 7月12日、吉継、三成・増田長盛・安国寺恵瓊と作戦会議。
 7月14日、吉継、敦賀に引き返す。
 7月16日、毛利輝元、大坂城入城。
 7月17日、三成、正家、長盛の三奉行、檄文を発する。
 7月19日、増田長盛、家康に機密情報を届ける。
 7月20日、真田昌幸に事情を知らせる。前田利長に檄文が届く。
 7月22日、前田利政、七尾城を出陣。5000
 7月26日、前田利長、兵20000で金沢城を出陣。
 7月30日、真田昌幸に誘引の書状を送る。
 8月1日、前田部隊、大聖寺城(山口宗永)を攻囲。
 8月2日、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、平塚為広、戸田重政等と計2万で越前に出陣。
 8月3日、前田部隊、大聖寺城攻略。
 8月4日、北ノ庄城入城。
 8月11日、利長、金沢城に退却。三成等、大垣城入城。
 8月23日、岐阜城(西軍)、落城。
 8月26日、三成から急使が来る。
 9月3日(2日とも)、美濃国に入り関ヶ原に展開。山中村の高台に布陣する。
 9月14日、大垣城からの転進して来る諸部隊を見て布陣を変える。
 9月15日、『関ヶ原合戦』自刃。

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