長岡宮大極殿跡

(長岡宮大極殿跡)

長岡宮大極殿跡

(長岡宮大極殿跡)

長岡宮大極殿跡

(長岡宮大極殿跡)

長岡宮大極殿跡

(長岡宮大極殿跡)


大極殿は、朝堂院の高級官人を集めて行われる大礼等の国家的重要行事や、来朝した外国使節団の謁見等の際に、天皇が臨席し儀式を行なう儀式専用施設である。廻廊で外部と仕切られた大極殿院内に後殿と南北に並ぶ形で南面して建てられた。長岡京の場合、長岡宮大極殿に入ることが出来るのは、桓武天皇と天皇の側近のみであった。

延暦3(794)年6月10日に造長岡宮使を任命して、翌延暦4(795)年正月1日までの間に完成した建物である。

地形的には向日丘陵(長岡)の傾斜地を平らな面に造成し建設されている。このことから桓武天皇にとって、この場所こそが、いかなる土木的困難を乗り越えてでも、風水上からも、卜占上からも、天文学上からも、地理上からも、あらゆる要素から見て長岡京の中心地にならねばならなかった場所だったものと思われる。

長岡宮大極殿跡

大極殿院跡から出土する瓦の91パーセントが後期難波宮式と同型のものであることから、長岡宮大極殿の建物は、後期難波宮の大極殿を解体し、その建材を当地に運搬した後に建設した、とする考えが有力である。

後期難波宮大極殿(大阪歴史博物館)

(後期難波宮大極殿 大阪歴史博物館)


儀式を執行する際には、大極殿中央に天皇の御座所として「高御座」が据えられる。

高御座(京都御所)

(高御座 京都御所)

高御座(復元平城宮大極殿)

(高御座 復元平城宮大極殿)


大極殿の外観は一切不明である。本格的な宮である藤原宮から平安宮に至るまでの歴代大極殿の地上建築物は何ひとつ残っていないために、総瓦葺の建物であったこと以外、その確かな復元は不可能である。

そこで、同時代、もしくは近い時代の寺院建設に用いられた建築技術等を参考にして作られたのが平安神宮外拝殿と復元平城宮大極殿である。平安神宮外拝殿は平安宮の大極殿を8分の5の大きさで推定復元したものである。

長岡宮の大極殿が単層であったのか、それとも重層風であったのか、はわからない。ただし、朝堂院南門に唐風の楼閣を建設している等、この時期の桓武天皇は「高さ」にこだわったようでもあり重層風であったかも知れない(後に平安宮では逆に桓武天皇が自ら建築物の「高さ」を抑える指示を出していることは長岡宮で「高さ」の失敗があったからではないかとも見られる)。

平安神宮 外拝殿

(平安神宮 外拝殿)

平安神宮 外拝殿

(平安神宮 外拝殿)

復元平城宮大極殿

(復元平城宮大極殿)

復元平城宮大極殿

(復元平城宮大極殿)

大極殿内部についても、大阪歴史博物館では後期難波宮大極殿内部の一部を、復元平城宮大極殿では平城宮大極殿内部を、それぞれ実物サイズで推定復元されている。これらの中では、とりわけ大阪歴史博物館の後期難波宮大極殿の推定復元模型は、長岡宮大極殿内部を想像する上で参考になる。

内部(大阪歴史博物館)

(内部 大阪歴史博物館)

内部(復元平城宮大極殿)

(内部 復元平城宮大極殿)


平安時代の記録では、大極殿内部には、侍従(従五位下相当)4名とと少納言(従五位下相当)2名が、それぞれ2名と1名が東南と西南に配され警護に当たった。

高御座(大阪歴史博物館)

(侍従と少納言 大阪歴史博物館)


加えて、褰帳命婦(内親王。または、三位相当)2名、威儀命婦(五位以上)4名が、それぞれ1名、2名で「高御座」の左右に置かれた。奉翳女孺18名が、9名ずつ大極殿南側の東西に並んだ。

褰帳命婦(大阪歴史博物館)

(威儀命婦 大阪歴史博物館)

奉翳女孺(大阪歴史博物館)

(奉翳女孺 大阪歴史博物館)


【長岡京における大極殿の主な歴史】

延暦4(785)年正月1日 朝賀の儀
延暦11(792)年正月1日 朝賀の儀
延暦11(792)年2月1日 桓武天皇、朝礼を聴す
延暦12(793)年正月1日 朝賀の儀
延暦13(794)年正月1日 廃朝

史料に見える長岡宮大極殿に関する行事は上記の通り。長岡京時代の史料はほとんどが失われていることに加えて、桓武天皇生母の高野新笠、桓武天皇皇后の藤原乙牟漏、同夫人の藤原旅子等の崩御に依り諒闇となり、大極殿での行事が取り止めになった影響もあると見られる。

また、長岡京時代は、大極殿よりも内裏が政治的な意味合いを強く持つようになったことも大極殿が歴史の表舞台から遠ざかる要因となっていると考えられる。


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