会昌門

長岡京の長岡宮朝堂院南門のこと。

この「会昌門」と言う呼び名は、平安京の平安宮朝堂院南門の呼び名に準じたものであり、長岡京時代に何と呼ばれていたのかは不明である。

昭和30(1955)年、梅原末治博士が監督し、樋口隆康博士の現場指導の下、中山修一先生や袖岡正清氏らによって発掘調査されたもの。そして、この発掘こそが、長岡京発掘調査の第一回目となったもので、この「長岡宮朝堂院会昌門跡」の石碑の建つ場所は、長岡京発掘調査の原点の地でもある。

石碑の文字は、これも長岡京研究に大きな功績を残した小林清氏の筆によるものである。

こうして発掘された「会昌門」の姿は、五間門で、立派な門であったことが確認されている。

さらに平成17(2005)年に付近を発掘調査したところ、「会昌門」の翼廊から南方へ突き出す形で、楼閣跡が発見された。

このように楼閣が設営された門は、古代中国では「闕」と呼称し、皇帝の比類なき権力の象徴とされたものである。

それまで、日本の都で、楼閣を擁する門は、平安京の平安宮朝集堂院南門である「応天門」のみとされていたが、その「応天門」に先立って、長岡宮の「会昌門」が楼閣を日本で最初に擁した門であることが判明した。

このことから長岡宮の「会昌門」は、平安宮の「応天門」に近い姿であったと思われる。

平安神宮応天門

写真は平安神宮の「応天門」で、復元サイズは平安宮の応天門の約八分の五に過ぎない。

この「会昌門」こそは、桓武天皇の新思想を具現化したものであり、堕落し行き詰まり腐敗し切った奈良にあった旧来の思考から脱却し、新しい思考の下で造営された長岡京に日本の都が遷都したことと、天智天皇皇統が治める都であることの象徴的な存在であった。

延暦13(794)年の平安京遷都に際しては、解体され乙訓郡から葛野郡の新都へ移築されたものと見られる。

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