辛酉革命

しんゆうかくめい

平安時代。

「辛酉」の年とは、天命が革まる年を意味する。

天応元(781)年の「辛酉革命」の年には、
桓武天皇が即位している。


保延7(1141)年が「辛酉革命」の年に当たった。

この年の3月に、鳥羽上皇は出家し、
7月には、保延から「永治」と改元された。
このような流れの中で鳥羽法皇は、崇徳天皇に譲位を迫った。

鳥羽法皇は、保安4(1123)年正月28日に、崇徳天皇が即位して以来、
良くないことが次々と起こったことを理由としたのである。

実際、どうしたことか、本当に災難ごとが続いた。

崇徳天皇が即位した年の4月には、愛宕寺が焼失。
翌天治元(1124)年2月、山城国の鎮守社である賀茂社が焼失。
11月には、瀬田唐橋が焼失。

翌天治2(1125)年秋に、大洪水が発生し甚大な被害が出た。
さらに、大治元(1126)年正月、鳥羽上皇が疱瘡に罹患。
年末の12月には、鞍馬寺が焼失。

大治2(1127)年の秋には、長雨が続き農産物に大被害が出た。
翌大治3(1128)年8月、陽明門内に怪鳥が出没。

大治4(1129)年4月、全国の呉竹の花が一斉に咲き枯れた。
そして、7月7日に、崇徳天皇の後ろ盾だった白河法皇が崩御。
12月になると、平忠盛の郎党が、天智天皇陵の木々を勝手に伐採した。

大治5(1130)年正月、藤原忠実の鴨院第が焼失。
2月には、藤原忠実の近衛第が放火される。
6月に入ると、旱魃となった。
そして、7月、鳥羽上皇の御所が焼失。
さらには、天然痘が流行した。

長承元(1132)年5月、疫病が大流行した。
同月、東三条第に落雷があった。
7月には、鳥羽上皇の御所が焼失。
9月、宗像神社が焼失。

長承2(1133)年5月、京内で強盗相次ぎ、
治安が極度に悪化した。

長承3(1134)年2月、六条院が焼失。
5月には大雨があり、鴨川や桂川は氾濫し大被害が出た。
9月、暴風雨が発生し京内にある多くの建物が倒壊した。
10月になると、疫病が大流行した。

保延元(1135)年正月、待賢門院の御所が焼失。

保延4(1138)年2月、内裏が焼失。
翌3月には、京都大火。
11月には、土御門内裏が焼失。

保延6(1140)年正月、石清水八幡宮が焼失。
閏5月には、延暦寺の僧兵が園城寺を焼き討ちした。


かくして、崇徳天皇は、12月7日に譲位を行なう。
体仁皇太子が受禅し、27日に即位する(近衛天皇)。

《関係略図》
 藤原顕季━━長実━━━━得子(美福門院)               │               ┝━━━━━━━┳近衛天皇               │       ┣妹子内親王               │       ┣ワ子内親王               │       ┗叡子内親王               │  白河天皇━━堀河天皇   │         │     │         ┝━━━━鳥羽天皇         │     │         │     ┝━━━━━━━┳崇徳天皇━━━重仁親王         │     │       ┣通仁親王         │     │       ┣君仁親王         │     │       ┣後白河天皇━━守仁親王         │     │       ┣本仁親王         │     │       ┣最忠親王         │     │       ┣禧子内親王         │     │       ┗統子内親王         │     │  藤原実季━┳苡子     │       ┗公実━━━┳璋子(待賢門院)             ┗実能
鳥羽法皇が行なった「譲位勧告」の真意は、
白河法皇の養女で寵姫でもあった藤原璋子所生の崇徳天皇を退位させ、
自らが寵愛する藤原得子所生の近衛天皇が即位することにあったと言われている。

つまり、崇徳天皇を退位させ近衛天皇の即位を以って、
「辛酉革命」とするものであった。

それこそが鳥羽法皇自身が、祖父である白河法皇の呪縛から解放されるべき、
まさに「革命」であった。

しかし、この後、近衛天皇は早世してしまい、後継者を巡る遺恨が残り、
やがて、『保元の乱』に繋がることとなる。

この年の「辛酉革命」とは、結果として、「武士の世」の端緒を開くことになったと言える。
まさに日本史上最大の革命となったのである。

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