【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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【天平16(744)年】 |
月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
正月23日 | 第45代 聖武天皇 |
知大政官事 鈴鹿王 左大臣 橘諸兄 中納言 藤原豊成 巨勢奈弖麻呂 |
太政官、奏上 |
鎮西府の俸禄等について、 天皇に奏上し勅許を得ている。 鎮西府は『藤原広嗣の乱』後に 廃止された大宰府に代わって設置されたもの。 ≫『藤原広嗣の乱』 |
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閏正月元旦 | 天皇、都について百官に下問 | ||
聖武天皇は、都について、 恭仁宮とするか、難波宮とするかを その賛否を百官に下問。 結果は恭仁宮181名(五位以上24)、 難波宮153名(五位以上23)で拮抗した。 聖武天皇は、閏正月4日、巨勢奈弖麻呂と、 藤原仲麻呂を市に派遣し市中の是非を下問。 結果は圧倒的に恭仁宮支持であった。 聖武天皇は、閏正月9日、恭仁京に 諸寺院や人民の家屋の造営することを命じる。 ≫『藤原仲麻呂』 | |||
閏正月11日 | 天皇、難波宮へ行幸 | ||
恭仁宮留守官に、 鈴鹿王と藤原仲麻呂が任命される。 この日、天皇と同行していた安積親王が、 脚の病気によって、急遽、恭仁京に戻る。 ≫『鈴鹿王』 ≫『安積親王』 | |||
閏正月13日 | 安積親王、薨去 | ||
父・聖武天皇。 母・県犬養広刀自。 | |||
2月12日 | 馬飼の雑戸を解放 | ||
平民の身分とする。 また同時に官奴卑60人も解放する。 | |||
2月24日 | 天皇、紫香楽宮へ行幸 | ||
元正太上天皇と橘諸兄は、 難波宮に残留する。 ≫『橘諸兄』 | |||
2月26日 | 難波宮を皇都とする詔勅が下される | ||
橘諸兄によって布告される。 | |||
4月13日 | 紫香楽宮周辺で出火 | ||
木々を切り倒して宮への類焼を防いだ 佐々貴山親人と佐々貴山足人の二人に対して、 8月5日に褒賞が下賜された。 | |||
4月23日 | 紫香楽宮の本格造営開始 | ||
官庁の造営が推進される。 | |||
9月15日 | 巡察使を任命 | ||
紀飯麻呂を畿内使、 石川年足を東海道使、 平群広成を東山道使、 石川東人を北陸道使、 大伴三中を山陽道使、 百済王全福を山陰道使、 巨勢嶋村を南海道使、 石上乙麻呂を西海道使に それぞれ任命。 ≫『石川年足』 ≫『石上乙麻呂』 | |||
10月2日 | 道慈、死去 | ||
大宝元(701)年に、 遣唐使と共に唐へ渡り留学し、 帰国後は日本の仏教界で活躍する。 ≫『遣唐使』 | |||
11月13日 | 盧舎那仏の体骨柱が建立される | ||
紫香楽宮の甲賀寺に建立される。 | |||
11月17日 | 元正太上天皇、紫香楽宮へ行幸 | ||
11月14日に難波宮を出発し、 この日、到着する。 | |||
《天平16(744)年のポイント》 天平13(741)年に、恭仁宮が「新京」とされたにも関わらず、 この年、都を恭仁宮と難波宮のどちらにするかが下問されている。 その背景には、自らの勢力圏である恭仁宮を都としたい橘諸兄と、 諸兄の画策に抵抗する光明皇后と藤原仲麻呂ら藤原氏との確執が伺え、 しかも両者の勢力は朝堂内で拮抗していたことがわかる。 だが藤原氏が築き上げた平城京は、 諸兄によって徹底的に破壊され棄てられたために、 藤原氏は難波宮を都に推挙するしか 対抗策がなかったと思われる。 《関係略図》 美努王 │ ┝━━━┳橘諸兄 │ ┗橘佐為━━━━━━━━━━━━━古那可智 │ │ │ └─────┐ │ │ 県犬養三千代 │ │ │ ┝━━━━光明子(光明皇后) │ │ │ │ │ ┝━━━━━━━━━━━━━━┳基王(某王)│ │ │ ┗孝謙天皇 │ │ └────────────┐ │ │ │ │ 藤原不比等┳武智麻呂━━┳豊成 │ │ │ ┃ ┗仲麻呂 │ │ │ ┣房前 │ │ │ ┣宇合 │ │ │ ┗麻呂 │ │ │ │ │ ┝━━━━宮子 │ │ │ │ │ │ 賀茂比売 │ │ │ │ ┌─────┘ │ │ │┌─────────────┘ │ ││ ┝━━━━━━聖武天皇 │ │ │ ┝━━━━━━━┳安積親王 │ │ ┣井上内親王 │ │ ┗不破内親王 │ │ │ 県犬養広刀自 │ └────────────┐ │ 草壁皇太子 │ │ │ ┝━━━┳元正天皇 │ │ ┗文武天皇 │ │ │ │ │ └────────────┘ │ 元明天皇 またこの時期、都の決定に朝堂が揺れる中にあって、 潜在的な皇位継承問題が朝堂には横たわっていたのである。 それは安積親王の存在である。 光明皇后所生の阿倍内親王が、 女性として史上初の皇太子となっていたが、 聖武天皇には藤原氏との血縁関係を持たない安積親王がおり、 その存在は反・藤原氏勢力にとって希望でもあった。 だがその安積親王は、 藤原仲麻呂が留守官を務める恭仁宮において、 突然、謎の死を遂げることとなり、 ここに阿倍皇太子の皇位は 磐石のものとなる。 この安積親王の死から間もなく 聖武天皇が不在の難波宮において、 橘諸兄によって難波宮を「皇都」とする詔勅が、 読み上げられることとなる。 これは難波宮遷都におけるイニシアチブを 諸兄が完全に掌握したかのような デモンストレーションとも取れる。 天平16年は、藤原四兄弟が没して後、 朝堂の支配を強化して来た諸兄を筆頭とする反・藤原氏勢力と、 光明皇后を中心にした仲麻呂らの藤原氏との対立が、 先鋭化した年であった。 |
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