【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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【天平13(741)年】 |
月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
正月元旦 | 第45代 聖武天皇 |
知太政官事 鈴鹿王 左大臣 橘諸兄 中納言 藤原豊成 巨勢奈弖麻呂 |
天皇、新都で朝賀を受ける |
新都の宮は未だ垣もない状態で、 垣の代用として帷帳が使用された。 |
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正月22日 | 『藤原広嗣の乱』の関係者を処分 | ||
死罪26人、流罪47人、 徒罪32人、杖罪177人、 官位没収5人であった。 ≫『藤原広嗣の乱』 | |||
3月24日 | 国分寺建立の詔、発布 | ||
日本全国に、 国分寺(金光明四天王護国之寺)と、 国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立が、 命じられる。 | |||
閏3月5日 | 叙位 | ||
大野東人、従三位。 藤原仲麻呂、従四位下。 ≫『大野東人』 ≫『藤原仲麻呂』 | |||
閏3月15日 | 平城京への高官の居住を禁止 | ||
五位以上の官人が、 特別な許可も無く平城京に留まることを禁止。 事実上の平城京棄都である。 | |||
3月19日 | 難波宮で怪異現象 | ||
宮の庭に、狐の遺骸が発見される。 それは頚だけの姿であった。 | |||
7月3日 | 任官 | ||
巨勢奈弖麻呂、左大弁兼神祇伯兼春宮大夫、 紀飯麻呂、右大弁。 藤原清河、中務少輔。 橘奈良麻呂、大学頭。 藤原仲麻呂、民部卿。 下道真備(吉備真備)、東宮学士。 ≫『橘奈良麻呂』 ≫『下道真備(吉備真備)』 | |||
8月28日 | 平城京内の東市と西市を新都に移転 | ||
経済的にも平城京は棄都された。 | |||
9月8日 | 大赦を実施 | ||
遷都に伴い大赦を実施。 『藤原広嗣の乱』に連座した者も含めて、 全ての罪人が釈放された。 | |||
9月9日 | 人夫の徴発を実施 | ||
大養徳(大和)、河内、摂津、山背の四ヶ国から、 新宮造営のために、5500人が徴発される。 | |||
11月21日 | 天皇、新都を「恭仁京」と名付ける | ||
正式名「大養徳恭仁京」。 | |||
12月10日 | 国制改革 | ||
安房国を上総国と合併させ。 能登国を越中国に併合させる。 | |||
《天平13(741)年のポイント》 この年、新都は「恭仁京」と名付けられ、 東国を転々とした結果、遂に平城京は棄都される。 また日本各地で発生した疫病や、新羅との関係悪化等、 内憂外患を払拭すべく「国分寺建立の詔」が出され、 鎮護国家思想は、地方に展開することとなった。 新都が、橘氏の勢力圏内に置かれたことは、 特筆すべきことであり、藤原不比等以来、政治の実権を掌握していた藤原氏の 政治的敗北とも言える出来事であった。 しかし、その影で、藤原仲麻呂が、光明皇后の力を背景にして、 着実に台頭し、復権の時機を窺っていた。 一方、一般人民にとっては、大赦が実施されたものの、 恭仁京造営のために畿内で、新たに5500人もの人民が徴発される等、 重い負担が課せ続けられていた。 |
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