【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【養老7(723)年】
月日  天皇 政体 事項
正月10日 第44代
元正天皇
知太政官事
舎人親王
右大臣
長屋王
大納言
多治比池守
中納言
藤原武智麻呂
巨勢祖父
大伴旅人
叙位

 多治比池守、正三位。
 ≫『多治比池守』
 石川石足、従四位下。
 ≫『石川石足』
 葛木王(橘諸兄)、正五位上。
 ≫『橘諸兄』
 藤原宮子、従二位。
 ≫『藤原宮子』


2月14日 詔勅が出される

 農業と養蚕の奨励に関する詔勅。

4月8日 大宰府より奏上

 日向、大隈、薩摩の三ヶ国が、
 度重なる軍役と飢饉の影響によって、
 飢餓と疫病に苦しんでいるために、租税免除を、
 大宰府が願い出たもの。
 この願いは勅許される。


4月17日 三世一身の法、施行

 開墾田の所有に関して、
 初めて規定された。
 ≫『三世一身の法』


7月7日 太安麻呂、死去

 「古事記」の選者。

8月8日 新羅使、来朝

 大使は金貞宿。
 8月9日に歓迎の宴が開催され、
 8月25日に帰国している。


9月17日 出羽国司より奏上

 朝廷軍の蝦夷征伐の際に、
 朝廷側として活躍した蝦夷52人への
 恩賞の実施を願い出たもの。
 勅許され、褒美と位が与えられた。


10月23日 曲赦を実施

 9月7日に紀氏から、
 「白亀」が献上されたことを祥瑞として、
 限定的な恩赦の曲赦が実施される。


11月2日 口分田を支給

 全国の12歳以上の奴婢に、
 口分田が支給される。


 

 《養老7(723)年のポイント》

 この年の最大の出来事は、
 「三世一身の法」の制定である。

 当時の現実的な問題として、
 重い「徭役」や「防人」等の負担によって、
 困窮した農民の逃亡が相次ぎ、口分田が大きく減りつつあった。

 このため朝廷では、農民の意欲を掻き立てて、
 口分田、即ち、公地を拡大する計画を立案したのである。

 そしてまたこれまで開墾田と開墾者の権利関係が明確でなかったのを、
 この「三世一身の法」で明確化する意味合いも含まれていた。

 内容は、開墾に際し、灌漑用水等を新設整備した開墾田に限り、
 その開墾田は、開墾者の三世まで、所有を認めると言うものである。
 具体的に所有を認められたのは「開墾者本人→子→孫」、
 もしくは、「開墾者の子→孫→曾孫」である。

 しかしながら、現実には、所有認可切れとなる三世代目になると、
 収公間近の開墾田での農作業に対する意欲が消え失せ、
 荒地となることが多かった。

 そして何よりも最大の問題は「公地公民」の原則が、
 大きく崩壊したと言うことである。

 つまり公地を拡大するために、公地の私有を認めると言う
 矛盾した法だったのである。

 この矛盾の背景には、「公地公民」の維持を企図する長屋王と、
 「私有地の拡大」を目指す藤原武智麻呂との対立があり、
 その折衷案としての性格が「三世一身の法」に
 あったためとされる。


 

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