夢を、見ていました。
まだ僕が幼かった頃の夢を。
いつも傍らには、兄の優しい笑顔があって。
全てが穏やかな空気に満ちていた、あの頃の夢を。
兄が怪盗になりさがる以前の…幸福(しあわせ)だった頃の夢を 。
夢のカケラ
目を開いた途端、飛び込んできた顔にシャーロック・ドラムズは一瞬息を止めた。
ドクリと一際大きく鳴った鼓動は、そのまま動きを止め、聴覚すらもその機能を停止する。
痛い程に突き刺さる静寂の中、同じ言葉だけが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
(…どうして?)
(…どうして、アナタが此処にいる?)
(僕を置いて出て行った筈のアナタが、どうして ?)
未だ覚醒しきっていない脳が捉えた、見憶えのある人物。
そんな馬鹿なと言うと思いと同時に、心の奥から沸きあがってきた感情。
胸の奥をギュッと締め付ける想いに、眩暈すら覚える。
そんな筈は無い。
兄がこんな処にいる筈は無いのだ… 。
頭の隅で、耳障りな音がする。どんどん大きくなっていくその音を振り切るように頭を振り、ゆっくりと瞬いた、その時。
「…起きたのかい?」
目の前の男が、柔らかに微笑んだ。
耳に響く、穏やかな声。
記憶の中の彼よりも少しトーンの高いその声に、止まったままだった時が動き出す。
ホゥと小さく息をつき、ドラムズは自分の顔を覗き込んでいる男を見上げた。
「………貴方でしたか。ミスター・エル・マタドーラ。」
「…全く、失態ですね。何時も寝てばかりいる貴方より、起きるのが遅くなってしまったなんて。」
そして、あまつさえ(いくら寝惚けていたとは言え)、彼を兄と見間違えるなんて。全く、失態もいい所だ。外見的に似ている2人でもあるまいに。
苦虫を噛み潰したような表情でティーカップを手にしたドラムズを、エル・マタドーラは微かな笑みを浮べて見つめていた。
今朝のドラムズは、いつになく饒舌だった。
それだけ起き抜けの出来事が気に入らなかったという事だろう。照れ隠しのように言葉を並べ立てている。
「…所で、ミスター・エル・マタドーラ。さっきから人の顔を見て、何を笑っているんです?」
「…いや。今日の君は、随分よく喋るなと思って。そういう君も新鮮で可愛いな。」
ニッコリと。相手が女の子なら、それだけで骨抜きになりそうな微笑を浮べたエル・マタドーラだったが、ドラムズには通じなかったようだ。
「…寝言は寝ている時にどうぞ。それとも、二度と減らず口がきけないようにして差し上げましょうか。」
剣呑な表情で睨め付けられ、エル・マタドーラはそっと首を竦めた。
「遠慮しておくよ。俺も命が惜しいからね。」
クツクツと、ひどく楽しげに微笑うエル・マタドーラを鋭い眼差しで睨み上げていたドラムズだったが、やがて、何を言っても無駄だと思ったのか、諦めたように視線を逸らした。
ドラムズの口が悪いのは、いつもの事だ。
そして、それは彼の親愛の証でもある。
彼は親しくない者には、こんな風な口のきき方はしない。言葉つきだけは丁寧だが、いっそ清々しい程に事務的で、感情の欠片さえ垣間見る事が出来ない。
少なくとも、こんな口をきいて貰える程度には、エル・マタドーラは彼の信頼を勝ち得ていると言う事だ。…哀しいくらいに不器用な、この堅物の信頼を。
「良い夢でも見ていたのかい?」
漸く笑いを収めたエル・マタドーラが、紅茶を一口含んで、ドラムズを見る。
「幸せそうな、顔をしていた。」
「……幸せそう…?」
コトリと首を傾げた探偵は、不思議そうに、微笑む闘牛士を見返した。何を言われたのか分からない、そんな心底意外そうな表情だった。
(幸せそう、ですか…)
確かに、幸せだった頃の夢を見てはいたが。
兄の事を考えると、まだ平静ではいられないのに。
決して、幸せなだけの想い出ではないのに。
(他人が見ると、そんな風に見えるんでしょうか…)
ドラムズには、生き別れた兄がいた。
兄 ドラパンは、ドラムズの憧れそのものだった。
頭が良く、スポーツも万能で、そして誰よりも優しかった兄。
いつも、人の役に立つ仕事に就きたいと言っていた兄を、ドラムズは本当に尊敬していた。
ロボット学校で常に首席だった彼は、開校始まって以来の優秀な成績で卒業。校長を始め、教師や生徒の期待を一身に背負ったまま…突然、姿を消したのだ。ドラムズにさえ、何も言わずに。
そして。
彼を探し出したい一心で探偵にまでなったドラムズの前に現れた時には、世間を騒がす大怪盗になり果てていたのだ。
「幸せな夢なんかじゃ、なかったですよ…」
ティーカップを両手で包み込む。ダージリンの香りがドラムズの鼻先を掠めた。ドラムズの好きな香りだ。
そう言えば、彼の兄もダージリンが好きだった。
本当は、ドラムズにだって分かっているのだ。
兄は、本当の意味での悪党ではない。憎むべき悪は、もっと他にたくさんいる。
だが、どうしても許せないのだ。
こんな方法でなくても、人々を救う手立てはきっとある。そして、それを見出せない兄ではない筈なのに。
誰からも尊敬され、褒め称えられるような自慢の兄でいて欲しかったのに。
兄を許してやれない自分自身が、許せない 。
ギュと。無意識にドラムズの指は、シャツの胸元を掴んでいた。肌身はなさず首から下げているロケットごと握りしめる。
ロケットの中には、古ぼけた写真が入っていた。仲が良かった頃の…2人の写真が。
「…そう?でも、本当に幸せそうな寝顔だった。自分で思っているよりずっと、君は幸福なんじゃないのかな。」
きっと、エル・マタドーラには、ドラムズが何の夢を見ていたかなんて、お見通しなのだろう。
だが、分かっていても決して触れてこない。それが、彼の優しさだ。
髪の色も目の色も、兄とは全く違うのに。昔の兄と同じ、包み込むような眼差しでドラムズを見つめる男。
でも。
この男は兄ではないのだ。
だって…兄は。
彼みたいに優しくないから 。
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