サンパウロ通信 第7号 1999年6月15日
小井沼宣教師夫妻と共に歩む会
会長 木田献一
沈み行く太陽とその光 辺境の地に遣わされて行く人々
小井沼国光
一
幼稚園の仕事がなくなった真樹子は新しい道を模索する中で、ブラジリアにあるカトリックの語学研修所に行った。私も、復活祭が終わった直後、彼女がどのような環境で学んでいるかを知るため、そこを訪問した。ブラジリアというのはサンパウロから約1000キロ、東京と下関間くらいの距離である。深夜バスに乗って14時間余り、乗っているだけでもかなり疲れる。 研修所には、世界各国から30人ほどの宣教師たちが集まり三ヶ月の集中講座を受けていたが、ポルトガル語と同じラテン語民族は、文章の構造、単語が共通しているために、彼らはブラジル滞在わずか三ヶ月弱でありながらかなり流暢に話す。私が三年もの間、こつこつと勉強したものと比べものにならない。正直なところ頭に来る。しかし、違うのは言葉だけではなく、顔や体つきまでが違うだけに、なんとなく異質な世界に私たちだけが迷い込んだという形で緊張を強いられた。しかし、私はブラジルの滞在経験が長いだけに、彼ら以上にブラジルの社会、文化、歴史を知っており、その知識をもって言葉の不自由さを補う形で交わりを持った。結果として、一番よく話し合えたのはイタリア人で、他の国の人々は、言葉がまだつたないだけに限界があった。
二
私が滞在中、ブラジル・カトリック教会の歴史および現在の教会が抱える問題について何度か講演があったが、それを聞いていて私が感じた事は、次ぎのようなことである。
1962年の第二バチカン公会議以後、ブラジルの教会は大きく変わり、特に60年代後半には「解放の神学」を生み出し、その路線で大きく躍進した。この時代は、「キューバ革命」の危機の中で軍部が政権を握った時代と重なり、次々と社会主義的な政党が弾圧、禁止される中で、教会が唯一民衆の抵抗を支え良心を証するところとして機能した時代である。それだけに教会全体が生き生きしていたようである。 ところが、80年代の民主化の時代になると、それまで教会に集中していた力というものが、政治的な自由化とともに分散し始めた。そして特にここ10年、いわゆる「ベルリンの壁」の崩壊とともに社会主義諸国そのものが大きく変容し、いまや世界は一丸となって「新自由主義(新資本主義)」の道を歩み出してしまった。そのため国と国の境目がなくなり、ブラジルには、ブラジル特有の数々の社会問題があるにもかかわらず、それが自国の力で解決できないまま、世界経済の論理に晒されるようになってしまった。 今年の問題でいえば、一月の半ばから始まった「ブラジルの経済危機」で失業率が史上最高になっている。サンパウロ州で云えば、失業率は20パーセント近くにもなり、180万人位の人々が路頭に迷っている。そうした中で犯罪も飛躍的に増大し、特に麻薬との関係が多いだけに犯罪も残酷化している。
こうした中でブラジル全国司教会議は、毎年四旬節に時の問題に触れ鋭い社会問題意識を提示している。今年の場合で云えば、「職がない、なぜ?」である。問題の指摘は鋭いが、具体的な解決策となると曖昧模糊としているように私には思える。例えば、司教会議の専門委員会は、小冊子の中で現代の合理化を少しやめ、手工業的な工業分野を広げ職場を創出するよう訴えているが、一国内の閉鎖社会ならばともかく、いま世界は一丸となって競っている社会だけに、有効性となると首を傾げざるを得ない。 そんな中で私は講演を聞いていろいろ教えられることも多かったが、現在の問題解決となると特に有効な手段はなく、その中でなにか複雑で重苦しい感情に捕らえられた。
三
講演の中ではなにも触れられなかったが、最近のカトリック世界を取り巻く内外の問題について少し触れたい。
一、カリスマ主義の宗教の台頭
ここ数年、世界が大きく右傾化する中で、カリスマ主義のキリスト教が飛躍的に伸びている。彼らは、社会の底・中産階級の人々で事業の破綻、失業、別居、離婚、エイズ、麻薬、暴力などで苦しんでいる人々を捕らえ信仰に導いている。彼らの神学は、「繁栄の神学」と云われ、伝統的な禁欲思想がなく、人生の破綻や貧しい環境から信仰を持つことによって、どのように金と財産を獲得し、社会の中産階級にあがっていくかに焦点を合わせている。
一部、これらの宗教運動は、膨大な資金力をもって広大な土地、建物を購入し、それらを集会所に変え、さらに出版社、テレビ会社、金融業までに手を伸ばし多角的に経営している。これらの宗教運動のプラス面としては、アルコールや麻薬におぼれ、人生に破綻している人々を救うだけでなく、彼らに聖書や信仰の書を読むことを勧める中で、結果として識字教育をしている。また彼らの子女には学校を用意し家族ぐるみで捕らえる。ただ、マイナス面としては、マインド・コントロール的な支配を持って他宗教・運動に非寛容であり、またあまりにも金集めの面がつよい。
最近、カトリック教会の内部からも、やはりカリスマ主義の司祭たちが現れ、話題を集めている。その中でも最も有名な司祭は、マルセロ・ホッシというまだ30数歳の若者であるが、つぎつぎと新しい賛美歌を作り、それをもとに「踊るイエス」を演出している。彼はもとエアロビクスの指導員であったようで、1メートル90センチの長身を活かし、柔らかいロック調の音楽をバックに歌い踊っている。彼の集会は、毎週サンパウロの郊外で開かれているが、そこに集まる3万から5万の老若男女を歌と踊りに誘い酔わせている。彼の説教はわずか十分位の当たり障りのないものであるが、日常的にストレスの多い階層社会にあって、彼は莫大な人気を博している。
ブラジルは、よくカトリック国といわれ、80パーセントの人々がカトリック教徒といわれるが、カトリックの神父は実質的には1万5千人しかいない。シスターを合わせて3万5千人ほどである。現在、カトリックの基礎共同体に関わっている人々は、だいたい350万人と云われる。仮にこの10倍の人々がカトリックの影響圏内にいるとしても、合計で3500万人となり、ブラジル総人口(1億6千万人)の約20パーセントである。それに対して、この種のカリスマ主義の信仰に入っている人々は1600万人と云われ、ここ当面、社会の矛盾がますます激化する中で、さらにこの派の流れは強まっていくと思われる。
二、カトリック内部の問題(神父たちの結婚と教会の財政問題)
最近発行された雑誌によると、ブラジルのカトリックの内部問題として神父の結婚問題があると云われる。30年前に比べて、神父の数は約二割増えたが、結婚する神父の数はなんと20倍にも増えていると云う。現在においては、四人に一人の神父が結婚している割合になる。しかも、現在のブラジルの開放的な雰囲気の中では、さらにこの傾向が加速度に増える可能性がある。記事の中で、神父がどのような過程で結婚に踏み切ったかという興味深い記事が書かれている。今日一般社会の別居・離婚率は50パーセントをこえるが、神父たちの場合は、長い間の煩悶、迷いを超えての結婚だけに離婚は皆無と云う。しかし、一旦、結婚すると当然のことながら、生活費が上昇する。そのため、どうしても貧しい教区に行きたがらない傾向が出てくる。 こうした状況の中で、この神父の独身主義は、歴史的に見て教会の財産保有制と密接に絡んだ問題だけに、神父の結婚増加は教会の制度と教会の財政問題を根本的に揺さぶりかねない。 こうした時代の流れの中で、ここで学んでいる神父ないしシスターたちが、さらに辺境の地に派遣されるに際して、なにを考えなにを望んでいるのだろうかと痛切に思った。
四
そこで私は何人かの神父とシスターたちと個人的なインタビューをした。 最初に私が興味を持ったのは、欧米の人間が圧倒的に多い中で、皮膚の色と云い、また全体的な外見と云い、同じアジア人として親しみを感じたインドネシア人ウンベルト(30歳)である。
彼はインドネシアのフロレス島エンデという町の出身。家庭は農業を営み、彼は六人兄弟姉妹の四番目。熱心なカトリック教徒の家庭の中で、また彼が幼いとき接した神父らの生き方を通して、最初神父になることを志したという。インドネシアのカトリックは500年前、日本からの帰途途中のフランシスコ・ザビエルの一行によって伝えられた。日本のキリシタンではないが、長い間、彼らは少数者として生きてきただけに、彼の故郷ではまだ本来の信仰の息吹が残っているのであろう。彼は小神学校に入ったとき、最初仲間は130人いたが、正式の神学校に移る段階で、それが77人になり、最終的に卒業段階では23人になったと云う。やはり、神父として生きるには、それなりの召命感がなくてはならず、途中多くの仲間が落伍していったのであろう。 彼の能力を思うと、彼は神学校の中でもエリートであったのであろう。事実、最初教区司祭になり、いわゆる権力の階段を登っていくことを考えたが、ある段階でそれらを全部捨て、どこか外国で本当の意味で貧しい民衆のために生きる、そんな捨て身の生き方がしたいと思って海外宣教師になったと云う。
次ぎに話したのが、フランス人のエンヒーキ(66歳)。 彼は、ブリュタニー地方のレンヌという町の出身。父親は皮革職人で、彼は六人兄弟姉妹の二番目。彼も熱心なカトリックの家庭の中で神父の道を目指し20歳の時神学校に入学。しかし途中、アルジェリアの独立戦争に巻き込まれ軍務に二年間就く。除隊後、また神学の勉強を再開し27歳のとき神父の叙階を受けた。彼はオブレート会という修道会に入り、最初海外に出たいと思ったが、労働司祭としてフランスで35年間働く。その後、州の司教を九年務め、それから解放されるとともにようやく念願かなってブラジルに来た。
彼は労働司祭として、長年社会の中で働く中でさまざまな社会の矛盾にぶち当たり、なんどもバチカンに手紙を送ったが返事は一度もなかった。そんな中で「いまのパパ(法王)はあまり好きでない」と彼ははっきり言う。でも、私が「文化と伝統に裏打ちされたあの豪華絢爛なバチカンの建築物に入ると、どんな司教もなにか圧倒されてものが云えなくなってしまうのではありませんか」というと、「私は何度もバチカンに行きましたが、確かにあの中に立つとなにも言えなくなってしまう」と首をすくめて言った。。
また、フランスでもここ20年余り、世の中がすっかり変わってしまったという嘆きを聞く中で、「いままでの生涯を顧みる中で、なにか後悔することはありませんか」と私は問うたが、それに対しては、「自分の歩んできた道を後悔するのは、まだね!まだ私の仕事としてブラジルでの生活がありますからね…と」にやりとしながら言った。彼は話の合間によくウィット(冗談)をはさみ、ちょっと首をすくめながら、いかにもフランス人らしい素振りを見せていた。
次ぎに私が話をしたのは、イタリア人のシスター、リベラータ(43歳)。彼女はナポリの出身で父親はレントゲン技師、五人の兄弟姉妹の長女。彼女も熱心なカトリック教徒の家庭で育ち、17歳のとき「特別に貧しい人々の中で生活するよう霊的な示しを受けた」と言う。20歳のとき女子修道会に入会し永久誓願するまで8年間、現場での学びと訓練を受けた。その後、最初に派遣されたのがアルゼンチンのブエノス・アイレスの郊外。そこで8年間働いた後、今度はパラグアイのアスンシヨンで7年間。いずれもスペイン語地域で貧しい子どもたちの世話をした。
「この道を歩むには、犠牲が大きいだけに、なにかにつまずき後悔するようなことはありませんでしたか」という私の問いに、「ぜんぜん、なにも。…貧しい人たちとともに生活をし、その人たちのお世話をする、それは私が特別に受けた召命ですし、現実の厳しい生活はいくらでもありますが、それはそうであるほど、『イエス様が歩まれた道』に近づくだけに、それは嬉しくて嬉しくて…。それにアルゼンチン、パラグアイと働いてきて、今度はブラジル。いつも挑戦、挑戦で後悔することはなにもないですわ。」いかにも嬉々として云うので、私は正直なところ驚き話が詰まってしまった。彼女らは、毎日早朝そして午後に黙想し、また月に一度ただ黙想のための休暇があり、その中で自分の歩みを主イエスの道に合わせていくので、それは実に喜びの道だと云う。
もう一人のカタリーナ(フランス人で現在38歳)も、「確かに途中なんども誘惑があり試練もあるけれども、道を歩めば歩むほど深いところで喜びが湧いてきて、こんな祝された人生はないと思っている。」 これらシスター達と話をしていたとき、真樹子がやってきて、「どうも女性の考えていることはよくわからない」と私が言うのを聞いて、「この人は、頭の中は知性でいっぱいですが、信仰の方は不足しているからね」と言って爆笑を誘ったが、確かに霊的なものに裏打ちされた彼女らの言葉には反論の余地はなく、しばしば立ち往生した。
五
最初、私は現在のカトリック教会は、現代の世界において沈みゆく太陽のように全体として斜陽にある体制のような気がしていた。 特にいま都市部において個人の霊的な救済に力を入れるさまざまなカリスマ主義運動が起こる中で、カトリック教会としても新しい音楽と霊的な要素をもって教会の復活を願わなければ、教会の足下から崩れていくとあせる若い世代が出現している。そのなかで「解放の神学」の路線を追及してきた古き世代は戸惑いを見せているが、現在の社会体制が大きく変わる中で、これをどう乗り越えるかという問題になると、なかなか容易なことではその脱出口が見えてこない。 そうした矛盾を抱えたまま、ここに来た宣教師たちがさらに辺境の地に遣わされていく中で、彼ら自身、自分の人生をどのように考えているのかと思った。彼らと話し合う中で私が感じたことは、私自身の言葉の限界もあり議論として、その矛盾の脱出口は見えてこなかったが、それと別にみな一様に明るく生きているのには驚いた。そしてその明るさというものは、彼らの共同生活の中で毎日たてるミサと黙想によることが大であると思った。なによりも彼らは霊的な次元で自分の人生を「主イエス・キリストの道」に合わせ込んでいる。そしてそこで獲得される彼らの霊的な深みと力は、特に信仰的な伝統と文化が欠如している私のような一代目の駆け出しの牧師の生活体験とはなにか根本的に違うものを感じた。なによりもブラジルでのミサは「祝祭(セレブラソン)」を意味する。特に基礎共同体の貧しい民衆とともに捧げられる祝祭は、まさにブラジル民衆の爆発的な明るさと喜びの表現とマッチしている。それはまさにイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から解放された「喜び」に通じている。そんな歩みをこれから日々体験していく彼らは、悲惨な現実があることを十分に知りながらも、その先にある神の約束を知っている人々かと思った。
そんな思いで、ブラジリアを後にしてサンパウロに着いたとき、筑豊の地で長く困難な闘いをされてきた犬養光博先生から『月刊福吉』という小機関誌が届いていた。その巻頭に「ボンヘッファーの書簡」から引用して、次ぎのようなことが書かれていた。またびきになるが、引用させていただくと、「おそらく僕たちは、苦しみというものについて、しばしばあまりにも重大かつ厳粛に考えすぎているのであろう。かって僕は、〈どうしてカトリック教徒は、このような場合に自分にふりかかる苦しみを無視して、黙って通り過ぎて行くことができるのか〉と不思議に思ったものだ。しかしそうすることによって、彼らはしばしばもっと大きな力を得ているのではないだろうか。おそらく彼らはその歴史から苦難や殉教というものが実際何であるかについて、僕たちよりもよく知っているに違いない…」
ブラジリアでの出会いと学び 小井沼真樹子
今年も早や半年が過ぎてしまいました。サンパウロでは五月頃から冷え込みが増してきて、気温が15度以下になると日頃暖かさになれている分、特に寒さを感じます。こうした気候の下で路上生活の人たち、失業している人たちはどうしているのかと気掛かりです。
昨今、サンパウロ市の経済活動人口の20パーセントが失業していると言われる状況にあって、私たちの数少ない教会員の中にも、食べ盛りの五人のお子さんを抱えて職を失った方、日本へ働きに行かれた方、日本で失業の憂き目に遭っている方などがおられ、社会の荒波が私たちの小さな教会まで押し寄せて来ていることを実感します。
最近の新聞記事によりますと、毎日、職を求める人たちが長蛇の列で順番を待っているうちに、空腹で倒れる人が目立って増えてきたとのこと。そこで職業斡旋所では、まず求職者の腹ごしらえをと、ハムのはさんだパンを提供するようになったところ、これを受け取った人たちはキリスト信者でなくても、聖書にある「天国の晩餐会」の情景を思い出すと言っているそうです。質素なパンの配給の中に天国を感じ取る心を持っている人たち。絶句するばかりです。
さて、今年、私は新しい宣教活動に向かうための準備の時を過ごしています。なによりもポルトガル語習得が先決問題ですから、一月末に思い切ってサンパウロを出発し、四月末までブラジリアにあるカトリックの「宣教文化センター」で宣教師のための語学研修を受けてきました。 今回の研修には、世界の13ヶ国から30名の宣教師たちが集まって、生活と学びを共にしました。13ヶ国の内訳は、ヨーロッパからイタリア9名、ポーランド3名、フランス、ドイツから各2名、アメリカからは合衆国2名、メキシコ、ペルー、アルゼンチン各1名、コロンビア2名、アジアからインドネシア3名、インド2名、日本人は私1人でした。そしてアフリカのコンゴから一名という顔ぶれで世界の四大大陸の代表者たちが集まり、男女の比率もちょうど15人ずつ。ほとんどがカトリックの神父やシスターたちでしたが、信徒宣教師も4名、またプロテスタントは私の他にドイツ人女性が一人いました。
センターでは三ヶ月間ほとんど毎日夕方から祝祭(セレブラソン)をし、カトリック信仰の霊性の中で自分が整えられていく日々を過ごしました。語学の勉強の他にブラジルの教会や社会の現実について学び、他の国々の文化にも触れ、宣教師たちとの人格的な出会いと交わりの中で、互いに学び合いました。他国の人たちとの関わりの中で、逆に「日本の良さ」についても新たな発見がありました。例えば、日本人の特性として他人を気にする感受性や配慮の細やかさは、日本人間では「ストレス」となってマイナスに作用するほうが多いのに、ここでの人間関係ではとても喜ばれました。 ポルトガル語の上達という点から言いますと、悲しいかな、日本人がヨーロッパやスペイン語圏の人たちと一緒に語学訓練を受けるというのがいかに不利な条件かを身にしみて味わってきたというより他ありません。他の宣教師たちの数ヶ月の滞伯期間に比べて、私の場合、今回の滞伯年数だけでも3年、まして前回の5年間の駐在生活を入れると八年の長期に渡ってここにいるというのにです。繰り返し勉強してきたので、文法だけは滅法強いのですが、会話の時間になると口数は少なくなり、新聞記事読解や講演などの聞き取りになりますと、「いい加減」な理解をする一人でした。縦文字の頭に横文字の回路を作るのは大変です。そして私の頭は30代の時のようには機能しませんから、尚のこと。これからも地道に努力していくより他ありません。
にも拘わらず、持ち前の度胸と愛嬌が功を奏してか(?)共同生活に関しては、皆と打ち解けて過ごせたのではないかと自己評価しています。センターの世話役のブラジル人シスターが「マキコはとてもほがらかね。宣教師にとってはそれがなによりですよ」とほめて下さったので、少々言葉の理解力が足りなくても宣教師としては合格したようです。
私たちは毎週金曜日の夜、それぞれの自国の文化を紹介するお祭り(フェスタ)をしました。研修が始まって第二週目にアジア合同でフェスタをした時には、持参した「ゆかた」を着て、「私はこんなに小さいので日本全体をしょって立つことはできませんが」と前置きしてから、たどたどしい言葉で日本の文化を紹介しました。それから自分で歌いながら(音楽のテープがなかったので)「炭坑節」を踊り、また「ジャンケン遊び」を皆でしました。盆踊りは殊のほか気に入られ、別の機会にも「おざしき」がかかって踊ることになりました。
三ヶ月の研修生活を通して一番強く印象に残ったのは、ブラジル・カトリック教会の現在の動きや庶民の信仰生活に触れたことです。カトリック信者の大半は社会の中で中流か、それ以下の貧しい「民衆」です。その「神の民」が約束の地を目指して荒野を旅していく姿がカトリック教会のイメージであることは以前から言われてきたことでした。「ブラジル全国司教会議」は公的な教会の指導を担っている上部組織ですが、彼らが必死になって守り導こうとしている教会は、最低辺の民衆を中心に置いていることがよくわかり、それが私にとって一番敬意を覚えたことです。
例えば、司教会議が定めた今年の四旬節(カーニバル後から復活祭までの期間、「受難節」)の兄弟愛運動のテーマは「失業」でした。「職がない…なぜ?」という標語をかかげて基礎的な学びのテキストをつくり、テーマにそくした「祈り」「賛美歌」を日々のミサで繰り返し使い、その他ビデオ、ポスター、新聞、テレビでの宣伝など様々な手段、材料を使って社会全体に対して今日の失業問題への理解を促し、失業者たちへの関心、連帯、祈りの促進をはかっていました。新聞、雑誌も司教会議の運動について賛否両論取り上げ論評し、今年はこの運動にメソジスト教会も協力し、エキュメニカルな展開が見られたと報じていました。
四旬節の最後の一週間(受難週)、ブラジリア近郊の町タグアチンガでカトリック信徒の一般家庭にホーム・ステイをして実習をしました。私を受け入れてくださった家庭は、信仰心篤く、シンプルで暖かなご家庭でした。恐らくブラジルの庶民的カトリック家庭の模範ではないかと思います。ご主人は小さな飲食店を経営している人で、新しい家の二階には、家族のために小さな礼拝堂がありました。毎晩、寝る前にお父さんが幼い娘(八歳)を含めて家族四人と二人の住み込みの使用人も一緒に集め、そこで聖書の日課を輪読し、お祈りを唱えてから休むのです。お母さんも実によく働く人で、やさしいおだやかな心の持ち主でした。このセニョーラは教会の典礼委員としても奉仕を受け持っていて、上の娘さん(予備校生)はカテキスタ(子どもたちへの教理教育指導者)です。私はそこの家庭で片言しかしゃべらない幼い娘の一人になったように安心して過ごしました。折り紙教室をしたり、日本食の昼食会をして近隣の人たちとも文化交流ができました。
このご家庭の一員として、カトリック教会の聖週間(セマナ・サンタ、受難週のこと)の一連の行事に初めて参加し、興味尽きないものを味わいました。大勢の信徒たちにまぎれこんで、民衆の生活の中にしみこんでいるカトリック信仰の伝統に触れ、今まで私が知らなかった新しいイエスの姿に出会っているような体験だったという気がします。そして兄弟愛運動のテーマはこの庶民の信仰行事の中にきちんと取り入れられ、失業者と連帯する心を祈り求め、すべての人が尊厳を持って仕事することができる、排斥のない社会を希望する歌がうたわれ、聖体の分かち合いが行われました。庶民が教会の権威を尊び、神父たちシスターたちの献身的な奉仕によって、全体が生き生きと福音に動かされていると私には感じられました。
この実習期間に貧しい人々が土地を占拠して二年になる共同体を訪ねました。まだアスファルトのない地域でしたが、教会堂を建てる共同作業に多くの人たちが協力したとのこと、神父が毎週ミサをたてに行くと、会堂は民衆であふれるほどになるのだそうです。信徒の大半は失業者で一体どのように生きているのか分からないが、とにかく貧しい人たちは乏しい物をよく分かち合って生きているというのです。ここでも「五つのパンと二匹の魚の奇跡」が毎日起こっているのでしょう。医療も教育も整わない劣悪な生活環境の中で人々が自暴自棄にならないで、福音を聞き、そこから力を与えられ、お互いに助け合って生きている現実に接し、私たちは心を燃やされる思いでした。信仰共同体が形づくられていくところに希望の光を見る思いです。
一番初めに失業者の現実を書きましたが、その新聞記事によりますと、失業が続く中で男性は絶望感からすべて投げやりになり、ヒゲは伸び放題、身なりを顧みなくなる。女性は失望と悲しみのとりこになり年齢以上に老け込んでいくとのこと。
「司教会議」の運動は、現実の失業問題の解決策には直接結びつかなくても、「民衆」にキリストの福音の光を投げかけ、希望を与える働きをしているようです。
ちなみに、来る二千年のテーマは「エキュメニズム」(福音宣教のために世界の諸教会が連帯していこうという運動)。来年は「ブラジルカトリック司教会議」主導の運動という枠組みを広げて、七つの教会(カトリック、ギリシャ正教、聖公会、メソジスト、長老派、組合派、改革派)の代表者からなる委員会がこのテーマについての準備を始めているといいます。この運動に何らかの形で関わっていく時、「日本人の良さ」をとどめている私たちの小さな教会も新しい宣教の使命と希望の光が差し込んでくるように思わされています。
ブラジルへの旅 石原 昌武
一、
弓場農場のこと
数年前、故弓場繁司祭が沖縄の石垣島の教会においでになった時、西表島の私達の家までおいで下さり、共に聖書を学び祈りを合わせたのが機縁で、長女が四年前、弓場農場に導かれ、尊い体験をさせて頂きました。農業を基盤にした生活共同体(80人以上)の実態をこの目で見たいとの願いが実現し、私と五男の共生(19歳)とで12月22日から1月3日まで訪問することが出来、多くの交わりと学びの機会を与えられました。特に若い魂に広い大地に立って、物を見、考え、いろいろな人と出会い、夢と希望をもって生きてほしいとの祈りが達せられたことは大きな恵みでした。13日間の滞在を通して感じた事は、一、ヤマ(地元では通称そう呼んでいる)では、日本語ですべてが通じ、私達が大事にしている伝統食が食べられ、気候や周りの草木や果樹が西表島と殆ど同じである事に驚きました。ヤマでは、調味料だけでなく、殆どの食材が自給され、米、野菜の他に鶏や豚も飼い、ヤマの中で解体処理され、大きな冷蔵庫に保存され、大勢のお客さんがあっても、いつでも対応出来るようになっているとの事でした。住宅や食堂、講堂、倉庫、作業所等の建物やその他の備品も自分達の手でつくり、風呂や大きな鍋物はマキで炊き、台所用品も日本ではとっくの昔に廃棄処分にされ、見当たらないものがピカピカに磨かれて、何十年も使用されているとの事です。二、ヤマで生活している一人一人が自分の役割、分担を自覚し、キビキビと良く働き、とりわけ子ども達の目が輝き、大人達に交って良く手伝い、生き生きしている事、お年寄りが大切にされ、とても元気で明るく働き、日本で失われている家族の原型を見る思いがしました。三、ヤマには収穫祭とクリスマスの集い、紅白歌合戦と大きな行事があり、毎日の忙しい生活と労働の合間をぬって練習に励み、皆で創り上げるその喜びと感動の体験こそ連綿として何十年も続いている原動力だと思います。ヤマには、一、土と共に生きる事、二、祈る事、三、芸術する事という三つの柱がありますが、それがあのクリスマスの集いに結実している事に感動しました。舞台、照明、衣装、音響と全部ヤマの人達で分担、協力してつくりあげたもので一人何役のあのパワーとその演技力はどこから来るのだろうか、日頃の労働と生活を通して体得し、創り出された芸術には力強さと美しさがある。生命が躍動しているのを実感しました。ヤマには今日の時代に忘れられ、切り捨てられている大切なものが存続し、継承されております。そこには人間のあるべき原点があります。ヤマが人間性喪失の時代に人間性を回復し、自分達の生活のあり方を考え、新しい出発をする場として用いられることを願ってやみません。
二、主にある交わり
ブラジル滞在中、三回の聖日を二つの福音教会で礼拝を守ることを許され、はじめてお会いする方々ばかりでしたが、良き交わりの時を与えられ、感謝と讃美で一杯でした。サンパウロ福音教会の小井沼国光、真樹子牧師夫妻(共生と先生の三男広嗣君が愛真高校で同級生)には、ブラジルの歴史と現状について、いろいろ教えて頂き、市内を案
内してもらったり、牧師館で五泊し、大変お世話になりました。12月20日の聖日は、丁度クリスマス礼拝の日に当り、先生からメッセージを頂き、愛さん
会で交わりの時を与えられました。共生の三味線に合わせて沖縄の民謡を歌いました。共生の三味線と歌はその後の集まりの場で大好評を博しました。12月27日と1月3日の聖日は、弓場農場の近くにあるアリアンサ福音教会で礼拝を守り、一回目は証しの場を、二回目は主題説教の場をつくって下さり、礼拝後は、教会員の皆様と会食し、交わりを深めました。牧師の下桑谷浩先生とは、いろいろな面で共感共鳴し、私との出会いを神様の導きだと心から喜び、今後とも交流していけるように祈りを合わせました。先生は、長年アリアンサの地に、森と土と聖書を土台にした「アリアンサ・クリスチャンアカデミー」をつくりたいと祈り続けて来ました。同じ主を信じ、キリストにあって志を同じくする先生との出会いによりブラジルが一層身近になり、祈りの輪が広がりました。弓場農場からサンパウロに戻った一月五日、サンパウロ福音教会の酒井姉妹に案内して頂いて市川幸子先生が園長しておられる「希望の家」(成人の知的障害者の施設)を小井沼先生御夫妻と五人で訪ねました。市川先生は日本の藤倉学園の元職員で、四十年前、主の召しをうけ、ブラジルに渡り、障害者を自宅にひきとって一緒に生活したのがはじまりで、今では「希望の家」という八十人以上収容する施設に発展しております。国や州からの援助のないブラジルの施設は、経済的には、何回も苦境に立たされた事があったようですが、どんな時にも毎日の礼拝を守り、一切を主の御手に委ねて、その重責を負いぬいて来られました。今では、先生の存在と働きは国の内外にも認められ、支援の手がのべられているとの事、先生との出合いも又大きな恵みの一つで、神様のなさる業は何とすばらしく、尊いことでしょう。主は一つ、信仰は一つ、御霊は一つとの思いに満たされ感謝と讃美にあふれたブラジルの旅でした。
〈石原 昌武さんの紹介〉
石原さんは沖縄出身の方。明治学院在学中、矢内原忠雄の集会に出席するようになり、後には高橋三郎集会に参加された無教会関係の方。長く三重県にある全国愛農会の作った「愛農学園農業高等学校」で教鞭をとられ、この学園で創設者の小谷純一と出合い、神を愛し人を愛し、土を愛する三愛精神を学んだ後、五十歳を過ぎてから学校を辞し沖縄に帰り、沖縄最南端島の西表島で土地を借り自給の農業をめざしながら、心身共、つかれ病んでいる人達が心から休息し、自分を取り戻す場としての「友和村」づくりに励んでおります。お子さんが七人いる中で、一人の娘さんが弓場農場に一年お世話になった経緯があり、昨年末、ブラジルに渡伯、現地を見学された。 (小井沼)
Hello !
川崎 さやか
「ブラジル通信」の記事を書くようにと依頼を受けた時、面倒だなと言う思いと、お世話になった牧師に対してむげに断わる事も出来ないと言う気持ちとで、少し迷いました。結局、自分の歩みを振り返ると言う意味でも良いチャンスであると自分に言い聞かせて、引き受けたわけですが、未だに考えがまとまらないままの状態です。面倒だなと言う気持ちが湧いてきた理由も、この一年(九八年四月〜九九年三月)の歩みを自分の中でどう位置づけるかと言う作業が、大変なことに思えたからでした。
既に帰国してから一月半以上経ちましたが、この一年間を振り返って、はっきりしたイメージで私の歩みを頭の中に描くことが出来ません。
ただ言える事は、あの時、ブラジルで生活してみようと思って日本を飛び出した事は、滞在中と帰国してからの今まで一貫して、間違いだったとは感じていないと言うことです。もっと有意義な滞在が出来たのではないかという意味での後悔はあっても、日本を離れたということ自体は良かったなと思っています。
実は私は九八年の二月に二週間ほどブラジルを観光旅行しました。その時は、又ブラジルに戻るとは思ってもいなかったし、ブラジルのイメージは、「とてもとても遠い国」でした。しかし、その「とてもとても遠い国」も一度足を踏み入れてみると非常に身近な世界に感じられました。旅行をする前に感じていた海外旅行に対する抵抗感と、再度ブラジルに渡って一年間を過ごしてみようと考えた時の抵抗感は、むしろ前者のほうが大きかったぐらいです。
なぜブラジルに行ったのか、何をしたのか、これを問われると正直なところ、答えに窮してしまいます。言葉を身につけて帰国後に仕事の上でなんらかの形で役立てたいということがありましたが、結局その点で役に立つには程遠いようなレベルでしか習得できなかったので、そのことを理由にあげる事ができなくなりました。
敢えて言えば突き動かすような何かが私を駆り立てたというところでしょうか。
日本での生活に閉塞感を募らせていたということもあります。それまで自分を覆っていたもやが消えて、奇跡のようにすべての見通しができるようになるという事を求めていたわけではありません。が、たとえ回り道になったとしても、ここ日本でいつまでも同じ事の繰り返しをするよりも、一度海外に出てみて新たな視点を自分の中に取り入れるということが結局は自分のためになるような気がしていました。結果的には、外部的な状況は帰国前と変わらないわけですが、内面的には少し変わったところもあると思います。
私は、大学を卒業後、五年間企業で働いた後、三年間、学校で臨時教師などをしていました。正教員になかなかなれない中で、同時に実際の学校の在り方や自分自身の適性についても色々と疑問を感じていました。
そんな時期に旅行をして、自分にとって全く新しい世界に接する機会を持った訳ですが、そのことは同時に私の中にも何らかの新しい可能性を探る事ができるのではないかという漠然とした予感をもたらしました。
私の中のブラジルは何だったのだろうかと問いかけてみるとき、もしかするとそれは、自分の中にある混沌とした未来、今ある生活と正反対の生活、自由と無秩序(ブラジルの未来、現在はまさにそのようではないでしょうか。)、そんな答えが可能かもしれません。(そして私が出会ったブラジルの人達は、そんな自分たちの国の未来を希望をもって受け入れようとし、また現在の国を愛しているようでした。)
私にとってのブラジルのイメージは、「なんでもある」です。お金さえ出せば物質的なものは何でもそろうサンパウロのようなメガ・シティからバスで何時間走ってもずっと草原が続く地方まで、なんでもある所から何もない所まで全てがある国。自家用飛行機を持つお金持ちと路上で生活する人、そして飢えで亡くなる人。字の書けない人。働きながら夜間の大学に通う人。色々な歴史的な背景を持ってブラジルに入ってきた多くの種類の民族。そして現在も移民が入ってきている国(以前よりは入国は大変ですが)。
「なんでもある国」は決してプラスの評価ばかりできる訳ではないのですが(むしろマイナスが目立つのですが)、それでも何かしらぞくぞくとさせる魅力があります。
日本では、ある意味では、既に学生時代から将来が読めてしまって「レールの上を走っていくだけの人生」を感じてしまう面があるかもしれません。それに対して、広い国土と豊富な天然資源と多様な人々を抱えたブラジルの将来は、可能性だけは、今がそうでないことの裏返しとして、より開かれていると言えるかも知れません。
ブラジルで生まれた人にとってはブラジルは住み慣れた故郷に過ぎず、たとえば日本に大きな魅力を感じるかもしれません。しかし外国人にとっては(私もその一人だったのですが)、ブラジルは常に刺激に満ちている場所に思える、そう言う面もあるのだと思います。