b. 「望んで生きる」(横浜港南台教会誌『若木』2005.3.27から)

 ヨハネの黙示録三章一節に「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と記しています。生命体として存在しているというのではなく「真に」生きるということを問題にしています。また、富める青年が主イエスに走り寄り「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問うています。彼も「真に」生きることを求めていたのです。聖書は「生きる」ことを最大のテーマにしています。私たちはこの答えを見出そうとして、聖書を読み教会生活をしていると言えます。

 私は、知らずに生まれており、気がついたら生きていた。その私の生は他の人と同じように、苦労して支えながら、最後は死という空しさの中に沈んでいく。このような生にどれほどの意味があるのかという悩みが「生きる」ことへの目覚めでした。その私にとって、聖書との出会いが「生きる」ことに向かって決定的な意味と力を与えてくれました。

 創世記の冒頭に「初めに、神は天地を創造された」とあります。私はこの言葉に触れた時、震えるような感激を覚えました。人間、自然を超越する全能の神がおられる。その神は初めに天地を創造された、それは必然的に終わりまで責任を持たれる方であるということです。私の生は針の先の一点のように小さく、またどんなに惨めであろうとも、神の全支配の中で「私であってよい」と聞こえたのです。もし、この神を信じることができるならば、私は「生きられる」と思ったことが、聖書への求道の出発点でした。神と向き合うことによって神に認知された私になり得るとのメッセージは大きな喜び、生きることに対し勇気を与えてくれます。これは、私たちが毎週礼拝を守ることの中で確認していることです。

 もう一つは、主イエスとの出会いです。福音書は主イエスの言葉と業を伝えています。それは一言で「凄まじい愛」です。私たちの愛は、受けて与える計算ずくの愛です。そして、その根底は私への愛をひたすら求めるばかりです。主イエスの無償の愛を知った時、こんな人がいるものかという驚きでした。私はこの愛の中に招かれ生かされていると信じて、主イエスに従おうとクリスチャンになりました。いつも破れてはいますが、神に向き合い、主イエスの愛に従う中で「真に」生きるということが始まると信じています。教会はこの望みに生きる群れです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2013.06.09