d. 「率直に疑い、大胆に信じる」(横浜港南台教会誌『若木』2001.6.24から)
私の信仰は聖書との出会いから始まりました。教会を訪ね、牧師から聖書を読むように薦められ、読み始めました。その冒頭「はじめに神は天と地を創造された」という言葉に触れた時、大きな衝撃を受けました。私の知る宗教は自然や人間の延長線上にある「神々」であったり、心や思想を制御、整理することによって得られる「悟り」のような、あくまで人間の側に内在するものでした。
聖書は「自然や人間を超越する人格的な神がご自分の意志と目的をもって天地を創造された。従って、歴史には始めがあり、完成へと神によって支配されている」と告げています。この神が信じられるならば、私の生がどんなに小さく醜かろうとも、神の支配に与る一点として生きることができると思いました。旧約聖書は、その神と関わって苦闘しながら生きる人間の姿がドラマティックに展開されています。創世記の族長たちは神を求めて叫びながら挫折する。それでも神を慕う凄まじい生き方に魅せられました。詩編の詩人たちは苦闘の中で神に纏わりついています。彼らの生と死に感激し、彼らと繋がりたいと思いました。これが私の信仰の出発です。
新約聖書に読み進み、イエス・キリストの愛に感激しました。私にとって聖書は、圧倒する神の言葉ではなく、諸々の本の中の一冊でした。ですから、聖書の言葉をそのまま信じることはなく、聖書記者たちの伝えようとする意図を私なりに受け止める方法で読みました。従って、イエス・キリストもあくまで人間でした。その人間イエスは時代の価値観を断ち切って、人間への深く確かな愛を生きられた。そして、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言われた言葉に触れた時、圧倒されました。この方は信じられると思いました。人間イエスを私の「主」と信じた時が、私の信仰への飛躍です。これには理由がありません。ただ、信じるとイエス・キリストに私自身を投げ出したのです。しかし、それからの信仰生活は悪戦苦闘でした。不信と疑いの中で、ただイエス・キリストにしがみついてきました。個性的な宗教哲学者・中村獅雄氏の「懐疑は信仰の産婆である」という言葉に触れた時、ホッとしました。そして、それは聖書に登場する人々の姿に他なりません。神はこのような求道をかえりみてくださると確信しています。率直に疑い、大胆に信じる。
(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)
最終更新日 2013.06.09