c. 「今日の宣教の課題」(横浜港南台教会誌『若木』1988.6.26から)

 教会はいつも何を信じ、何を告白、証しするかを問うてきました。時代と切り結ぶ宣教の課題を、教会の生命としてきたわけです。そこで、この問題について日頃から考えさせられていることを記してみたいと思います。

 私たちの信仰は、イエスを主キリストと信じ、告白する信仰です。これは、まず聖書的表現によれば、イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦され、神に贖なわれていることを信じることです。私の言葉では神による「生の絶対的肯定」の宣言です。誰からも、自分自身からも否定されない者として神が受容してくださっていることを信じるのです。又イエスの復活によって、私たちに神の生命が与えられ、望みに向って生かされるという信仰です。このイエスの十字架と復活に、私たちの生の根拠がある。この救いを成就してくださったイエスを主キリストと信じるのです。ですから、この救いは誰からも侵されず、私らしく生きることへの招きであり、それを可能にしてくれる神の約束です。今日的表現をすれば、人権が保証され、自由へと解放されていくことです。

 イエスを主キリストと信じ、告白することを神学的には「キリストの主権告白」と言います。この告白は私の身に起こった救いの出来事ですが必然的に、社会的、歴史的広がりと深まりを持っています。私はそれをドイツのバルメン宣言に鮮やかに教えられます。ヒットラーに率いられたナチズムが台頭してくる中で、告白教会の神学者たちは、バルメン宣言を出しました。その第一項は次のような告白です。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一のみ言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一のみ言葉のほかに、またそれと並んで、更に他の出来事や力現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないという誤った教えを、われわれは退ける。」この宣言は、イエス・キリストに啓示された神のみ言葉に生と死をかけて従うという古典的言葉の信仰告白です。しかし、その意味するところは、ヒットラーには不服従の表明であることは明らかです。イエスを主キリストと信じるキリストの主権告白は文字どおりイエスのみを神とし、他の一切は神でないことを証しすることです。キリスト者は、どんな人、天皇もただの人とし又、経済第一主義、科学万能主義にも陥らない。地上のものを徹底的に相対化する理性を持つのです。イエスの十字架と復活に「絶対的肯定」の宣言を聞き、神に生の根拠をおいて救われた者は、この告白を世に表わすのです。それが、この世の救いになるからです。教会の宣教は、ここに集約されています。

 今一つ、教会の宣教の課題として考えさせられる視点があります。それは、韓国の教会が主張する「民衆神学」あるいは第三世界の教会が闘っている「解放の神学」と言われるものです。レスター・C・サローが「ゼロ・サム社会」という本を書いています。ゼロ・サム社会とは、マージャンの点数のように片方がプラスになれば、もう片方はその分だけマイナスになる社会構造であるということです。北側の先進諸国が豊かになれば、それだけ南は収奪されていることになります。確かに第三世界は、先進諸国の権力と富と情報によって人権はおろか、生存権まで奪われている現実があります。この第三世界の教会は、イエスの生きた時代状況との類似点を見出し、イエスの人間解放を学んでいます。それは抑圧されて貧しく、差別されることから、人間の尊厳の獲得のための闘いです。荒井献氏は、今日の聖書学が辿り着いたイエス像と韓国の民衆神学の闘いは、著しく似ていると述べています。

 私たちは豊かな日本に住んでいます。この港南台近郊は、高級住宅地化しています。現実的な生活は、余裕のない多忙な仕事に追われ、豊かさを感じられません。しかし、テレビで餓死する子供の映像を見、戦争で無残に死にゆく若者を見ると、心が耐え難く痛みます。彼らの生と死は私たちの生と直接繋がっています。今すぐ、何かができるわけではありません。しかし、目は世界の現実に向け、この地で彼らの生と関わる生き方が求められています。それは、生きることに困難をおぼえている方々と、可能な限り連帯する砕かれた心を持つことです。

 今日、世界の教会は、第三世界から提出されたイエスに従う人間解放という信仰理解に大きく揺さ振られ問われています。この問いかけに真摯に応答することが、この時代の教会の宣教の課題です。

 キリストの主権告白は、いわば垂直な神との関わり、人間の尊厳の問題です。解放の神学の命題は、いわば水平な隣人との連帯、愛の問題です。これは、イエスの私たちへの愛が、人間になることへと呼び覚ます救いです。私はこのような宣教の課題を模索しながら、福音の使命を果たす教会形成を考えています。皆さんと共に、明日の教会を望んで前進したいと思います。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2013.06.09