b. 「復活信仰」(横浜港南台教会誌『若木』1987.4.19から)

 今日は、イエス・キリストが十字架の死の中からよみがえられた復活日(イースター)です。教会にとって最も記念すべきこの日、復活信仰について申し上げたいと思います。

 ご存知のように、現在、キリスト教信仰について、その内実が厳しく問われています。大きく二つの流れがあると思います。復活信仰についても全く同じであります。

 従来の、欧米を中心とした伝統的な復活信仰は、聖書の証言どおり、イエス・キリストは十字架で死んだけれども、事実として三日目に復活された。死人の復活は人間世界には起こりえないことで、それが起こったゆえに、イエス・キリストは神の子であり、この事実に神の啓示がある。復活信仰のないキリスト教はあり得ない。キリストの復活を信じて、私たちも神の命にあずかる。こういう復活信仰です。これは、言わば上からの啓示を受け入れて成り立つキリスト教信仰といえます。

 しかし、最近、死人の復活など起こり得ない、キリストの復活は、イエスの愛を追体験する中で、愛の共同体を形作っていった時、その出来事を「復活」という言葉で表現したのであると主張する人がいます。

 イエスは、「地の民」といわれ、社会から完全に疎外されていた人々へのすさまじい愛を実践されました。これは、権力者には体制を危うくすることでしたから、当然十字架の死へと追い込まれました。イエスの死は社会的圧死である。弟子たちは、このイエスの奇跡的とも言うべき愛を思い起こし、それにならったのです。その時、彼らの間で、イエスはまさに、生きて働く復活としてとらえられたのです。この理解は、発展途上国の先進諸国と結びついた暴力的政権下で、死を堵して生存権獲得のために闘っているキリスト者の間で、イエスの十字架の死と復活は、すばらしい人間解放としてリアルにとらえられています。これは、言わば下からの復活理解といえます。

 世界の教会は、これら二つの復活信仰の対立、また絡み合いのなかにあるといえます。皆さんは、どのような復活信仰に立っておられるでしょうか。私は、後者の復活理解の正当性を全面的に認めます。イエスの生涯を思う時、上からの啓示を受け入れ、自分だけの信仰を喜ぶ者は時代の矛盾に目をつむり、イエスの示された愛と正義と平和を無意味にするからです。これは美しい、またたくましいキリスト教理解といえます。しかし、私はどうしても、ひっかかる点があります。それは、イエスの愛にならう振る舞いができなくなった死の床にある時、キリスト教信仰は何の力も持ち得ないのではないかと思うからです。キリストの復活は、全く無力な者にも神の命を約束する人間の根底を支えてくれる力だと信じるのです。キリストの復活を信じるから、生きる望みが与えられ、愛に向かうことができるのです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2013.06.09