a. 「患難を喜ぶ」(横浜港南台教会誌『若木』1985.9.15から)

 パウロはロマ音五章一節、二節で信仰の喜びに満ちた言葉を連ねています。「信仰によって義とされた」「神に対して平和を得ている」「この恵みに信仰によって導き入れられ」「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」キリストの十字架によって罪ゆるされて義とされ、神との正しい関係に招かれ、神と共に生さる者とされていることを喜ぶ。これがパウロのキリストから受けた喜びでした。

 ところが次の三節で「それだけではなく、患難をも喜んでいる」と語っています。患難は元来は、抑圧、圧迫という意味ですが、単純に、生きる上での苦しみということです。「患難、汝を玉にす」「苦あれば楽あり」という諺もありますが、患難は何より避けたい、それでいて私共をとりまく現実生活そのものです。パウロはこの患難を喜ぶと言っています。患難は喜べないから患難になるわけです。しかし、もし患難を本当に喜ぶことができるならば、その人生は、生きる意味を悟ったすばらしい人生といえます。パウロの信仰は、ここにその強さがあるのです。

 パウロは、患難を喜ぶ理由を三つあげています。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っているからである」患難は、忍耐と錬達と希望を生み出すと悟っています。忍耐とは、いつも受動的に耐えるだけでなく、能動的、積極的に苦しみに対処する精神です。そして、錬達とは、金を純化する精錬のことですが、これは言うまでもなく、神の恵みに対して心が精錬されていくことです。患難の中から神の恵みを見ていくのです。このように神に思いが集中してゆきますから、そこには大いなる希望が生まれるのです。苦しみに負けて人生を放り出すのでもなく、又時が解決してくれるとフテくされるのでもなく、神がこの患難に責任を負って下さる恵みの現実を知るのです。ですからその希望は「失望に終ることはない」のです。この患難を喜ぶ信仰の根拠は「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」とパウロは結んでいます。キリストを信じて義とされた時いただいた聖霊によって、ひとり子さえ惜しまないで与えて下さった神の愛が私共の心に注がれていますから、どんな患難の中にあろうとも、間違うことなく忍耐と練達と希望へと進んでいけるのです。

 私は患難を喜ぶところにキリスト教信仰の奥義があると信じています。人は宗教に自分に都合のよい利益と平安だけを求めていますが、キリスト教信仰は、患難の中にも、神の愛の御手があることを見て、それを喜ぶのです。それは、キリストの受けた苦難と死、そしてそれからの輝かしい復活の事実が、神に生きる者に確かな生涯を約束していることを見るからです。キリストにならい、神の恵みを見て喜び、患難をも切り開いてゆく動的な信仰を生きる者になりたいと思います。私共はこのような生へと召されているのです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2013.06.09