b. 「強い人と弱い人」(横浜港南台教会誌「若木」1986.9.28から)

 「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」   ローマ書一五章一節

 パウロは「わたしたち強い者は」と書き出しています。彼の生涯を知る私共は福音のため彼ほど強靭に生きた人はいないと思います。しかし「わたしたち」と複数に書いています。これは、ローマ書の言葉を受け入れ、キリストの十字架と復活を信じ、聖霊の導きにあずかっている全ての信仰者、即ち私共を含んでいます。パウロによれば、私共は強い人なのです。これは、彼のクリスチャンに対する信頼と励ましの言葉です。私共の現実は、自分の弱さに呻吟しているわけですが、キリストにある者として強い者とされているのです。パウロは、その強い者は「強くない者たちの弱さをになうべきである」と語っています。ここには、パウロの信仰的意味における強さが述べられています。

 私共は強い人という場合、知恵と力があり、この世を勢いよく生きている人を思いうかべます。そして、そのような生き方にあこがれます。しかし、パウロは全く違った視点から強い人をとらえています。強い人は、強くない人の弱さをになうというのです。ここにおいて、パウロの頭の中にある真に強い人のイメージは、言うまでもなくイエスです。イエスは強くない者の弱さをになわれ、ご自分の喜びを放棄されたのです。「地の民」として蔑まれ、時代から捨て去られた人々を求め、彼らに神にあって生きよと、み言葉としるしを与えられました。飼う者のない羊のようにおし寄せてくる群衆に、休む間もなく、神の真実を示されました。又、時の権力者に追われて逃亡生活の間も、心をこめて愛する弟子達を教育されました。イエスは、まさに枕する所のない激しい愛に生きられました。そして、弟子の一人ユダの裏切りによって捕縛され、他の十一人の弟子達に、くもの子を散らすように逃げ去られた後、一人で無法な裁きを受け、最後は、ゴルゴタの十字架の上で悲痛な叫びをあげて息を引き取られました。このイエスの生涯は、人間の知恵からするならば無残な敗北者の姿です。しかし、このイエスの生涯は、悲しみ、苦しむ者を支え、生かす真実の強さがありました。そして、イエスの受けた十字架の苦しみと死は、人間の罪をゆるし、神にあがないかえす神の人間への救い、真実の愛だったのです。

 もちろん、神の子イエスと私共を比ぶべくもありませんが、パウロは、イエスに、強くない者の弱さをになう真の強さを見て、このイエスにならえと勧めています。

 聖書は、常に私共の常識をひっくり返すような言葉で語りかけ、そして、これは真実です。今の時代の問題は、強い者が強くない者の弱さをどうになうかにかかっています。パウロは、キリストの十字架への信仰によって、それが可能であると私共を召し出しています。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.11.28