a. 「十字架」(横浜港南台教会誌「若木」1986.3.23から)

 今日は棕梠の主日、イエス・キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入城され、棕梠の枝を打ちふる群衆に大歓喜をもって迎えられた日です。しかし、この群衆の歓喜とは、うらはらに、この日から十字架の死に向かって、苦難の日々を送られた受難週の第一日目です。

 キリスト教は、キリストの十字架を中心にした宗教で、ご承知の通り、十字架が教会のシンボルです。この十字架は、神のひとり子イエス・キリストが、私共人間の罪を代わりに負って死んで下さった罪の赦しの贖罪死、別の言葉で言えば神と人間との和解の出来事と信じられています。人間の罪を洗い流し、神との交わりを成就して下さった福音として受けとめています。

 ところが、最近、二千年前のナザレのイエスの死は、私共の生と直接的な関わりはない。神の子の贖罪死は、宗教的幻想だという人がいます。その人々は、イエスの死はあくまで政治的な死であると断言しています。イエスは、当時の律法という神の名による差別管理社会に対し根本的な人間解放をめざし、それが当局側から体制を壊す者として死刑にさせられていった。イエスに学ぶものは、社会体制のもつ非人間化からの解放である。そして、そこに今日のキリスト者の意味があると言っています。確かに、福音書を注意深く読むとその通りです。そしてイエスに従う生き方は、時代の十字架を負うて、人間が人間になる闘いをすることだと思います。

 今日のキリスト教会は、イエスの死をめぐって、贖罪死と政治死の二つに大きく分かれています。

 私は、イエスの死を次のように信じています。キリストの十字架は、人間の生の絶対的是認、肯定の宣言です。イエスの死において、自分でもなく、又人からでもなく、神が私共の生を「よし」と存在そのものを受け入れて下さっている。この神の是認を信じるから、私共はどんなことがあっても、生きてゆく望みが与えられるのです。そして、このイエスの死による神の是認宣言は、全ての人に対してなされているのです。この福音に立って、自分自身と社会を見る時、他者を否定して生きている罪の様がよく見えてきます。ここから、人間の生み出す差別、抑圧、貧しさという罪と真正面から取りくむ生き方が生まれてくるのです。

 今日は、確かに、神を見出し得ない文化状況にあります。しかし、私はキリストの十字架に、私の生の根拠が神にあることを信じ、それにしがみついて生きてきました。そうでないと、あの苦しんだニヒリズムに沈みこみ、絶望するしかないからです。

 イエス・キリストの贖罪死、あるいは神との和解を、このように生きることを神によって「よし」とされる福音を信じる信仰が、イエスに従う、人間解放の闘いを可能にするのです。

 この一週間、イエス・キリストの味わった日々の苦難をしのびながら十字架を見つめて過したいと思います。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.21