a. 「自分を愛するように」(横浜港南台教会誌「若木」1984.10.7から)

 イエス・キリストは、律法学者の「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」という問に対し「第一のいましめはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない」と答えられています。聖書の戒めは神への愛と隣人への愛に集約されると語られています。そして、この二つの戒めは固く結び合わされた一つの戒めとして理解すべきでしょう。神への愛は必然的に隣人への愛を生んでいきます。又、隣人への愛は、神への愛から生まれてきます。キリスト教信仰は、この教えの上に立脚しています。

 ところで、私は「自分を愛するように」という言葉が、二つの戒めを結び合わせる鍵になる大切な言葉だと思います。聖書では確かに自分だけを愛する自己愛は罪人の愛として否定されています。けれども、正しく自分を愛し、正当に自分自身を受け入れることができない。変に高慢になり、あるいは自己卑下して深いニヒリズムにおち入っている。自分を正しく愛することが分からなくなっている虚無の問題が、今日の最も深い所にある病巣のように思われます。

 前々任の教会で、神への愛と隣人への愛は、自分を愛するようにという事がポイントであり、自分を愛せない人にどうして隣人を真実に愛することができるでしょうかと説教しました。すると、その日の献金当番になった婦人が献金祈祷の途中、泣き出してしまったのです。彼女は結婚後、すぐに膠原病になり非常に苦しい闘病生活を続け、私と出合った所も病院でした。退院後、一人では歩けないものですから、友人の車に乗せてもらい、教会にかよい、熱心に求道して洗礼を受けました。彼女は不自由な体をおして、固く礼拝を守り、友のために祈り、愛に生きようと大変な努力をしていました。その信仰に生きようとする姿は、本当にけなげでした。ところが、彼女は、自分を正しく愛することなく、神と隣人への熱心さを知らされ、祈りの途中「私の愛はニセモノでした」と涙ながらに神にざんげしたのです。子供に恵まれず、痛く、不自由な体を、やさしいご主人に見守られて生活している自分を、自分の生として受け入れることができなかったのです。神への信仰にかけて新しい生き方を必死で求めていたのですが、心の深い所では、自分の生をのろっていたのです。彼女は自分を愛していない信仰と愛のニセモノを知らされて、新しい求道を迫られました。

 イエス・キリストの十字架は、私共の罪のための贖いですが、この福音は、私共のあるがままの生を「よし」として是認し、受け入れ、徹底的に愛して下さっているという恵みです。十字架は、上なる神と結びつく縦棒と、水平な隣人と結びつく横棒からなっています。そして、この交点が、自分を愛するようにということであり、それが私たちの徹底的な受容というキリストの座でもあります。私共の信仰は、キリストが愛して下さったように、自分を愛する。そこからすべてが出発し、又広がってゆくのです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.28