d. 「いのちの神」(横浜港南台教会誌「若木」2001.4.15から)

 聖書には「命」という言葉が、旧約に三百五十三回、新約に百二十六回も使われています。聖書は「神」に関わって生きようとしたイスラエル人が書き残したものですが、その内実は「命」を求め続けた苦闘の文書とも言えます。「神」を求めることは「命」を問うことと同質であることを意味しています。

 ペルーの解放の神学者・グスタボ・グティエレスの「いのちの神」という本が翻訳出版されました。次のように書いています。「いのちの神を私たちは信じます。人間として生きるのに必要なものが欠乏している。これは、イエスが私たちに明らかにした神の意志とは正反対のことだ。この神への信仰を肯定することは、非人間的な状況を拒否することを含んでいる。この非人間的な状況が、いのちの神の宣言に、その内容と緊急性をもたらすのだ。」また、この本を次の方々に捧げると記しています。「オスカル・ロメロ司教、ペルーで暗殺された修道女たち、そして、ラテン・アメリカにおいて、その死によっていのちの神を証言した全ての人々に。」神の名において正義を求める闘いの中で多くの殉教者が出ました。彼らは死を賭して「いのちの神」を証ししたのです。この闘いは旧約聖書以来、今も世界の各地で続いています。神を信じることは「いのち」の保証を共有することです。

 私は、韓国の池明観先生を尊敬し、多くを教えられてきました。池先生が来日し、講演された中で、グティエレスの主張と向き合うように次のように語っています。「この時代における救いのメッセージは明白なものである。かつては相手を殺すことが自分が生きる道であるというサヴァイブ-サヴァイブの関係であったとすれば、今日においては相手を殺すことは自分を殺すことであり、相手を生かすことは自分を生かす道であるという。ウィン-ウィンの関係である。このような時代のしるしから平和の神学を考えそのメッセージを発信しうるのではなかろうか。」他者を否定し、一人勝ちする時代ではない。命を分かち合って共に生きることが求められています。

 今ひとつ、命に関して考えさせられることは、子供・若者たちの命の重さに対する希薄さです。「人を殺してみたかった」という思い、「人を壊す」という表現はどこからくるのでしょうか。そして、報道される殺人事件に驚かされ、幼児の虐待死、老人の孤独死に心が痛みます。しかし、これが私たちの生きている現実です。嘆く前に、私たち自身が「いのちの神」を信じる者として命の尊厳を表す生き方をすることではないでしょうか。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.21