c. 「初めに言があった」(横浜港南台教会誌「若木」1998.1.4から)
ヨハネ福音書は「初めに言があった」と書き出しています。これは、旧約聖書の創世記の冒頭「初めに、神は天地を創造された」という言葉に対応しています。聖書の宗教は、言葉の宗教と言われています。人格を持つ「言葉」を媒介にして、確立し伝承されていくからです。そして、その言葉は「神の言葉」に根拠があります。神は天地創造に際し、言葉を発せられ、その言葉通りに創造されました。神の言葉はそのまま現実となる力を有し、また命を与えているからです。神の言葉の力と命を伝えることが、聖書の基本的なメッセージです。
新約聖書のヨハネはまず、「初めに言があった」と書いています。そして、この「言」は神であり、この「言」によって万物は成ったと続いています。天地を創造した力と命を持つ神の言葉こそ「言」であると主張しているのです。更にヨハネは、この「言」に命があり、命は人間を照らす光であり、光は暗闇の中で輝いていると「言」の内実を明らかにしています。ヨハネにとって、神の言葉は「言」であり、それはイエス・キリストその方でした。そして新約聖書は、神の言葉はイエス・キリストにおいて現わされたと一貫して告知しています。この告知を受け入れ信じることが、私たちのキリスト教信仰なのです。
福音書に記されているイエス・キリストの「宣言」は、そのまま実現し、人を立たせています。私たちの小さな信仰生活においても、イエス・キリスト(言葉)によって癒され、支えられ、導かれていることを喜びをもって体験させられています。これはとりもなおさず、言葉が信頼できるという奇跡です。今の時代の病根は、ひとえに「無責任」にあると言えます。言葉の力と命を失い、本音と建前が「利益」と関わって見事に使い分けられています。信頼できる言葉の回復こそがお互いを安心させます。年ごとに不安と恐れは加速されていくとしか思えません。しかしその中で、神の言葉であるイエス・キリストに結びつき、確かな力と命ある言葉を求め、それを証しすることが、私たちの救いになります。
(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)
最終更新日 2018.10.21