b. 「民族主義と世界主義」(横浜港南台教会誌「若木」1989.10.1から)

 私たちは聖書を神の言葉と信じ、聖書から信仰を学び、聖書を生活の基盤にしようとしています。聖書は神がユダヤ人を選び、ご自身を啓示し、イエス・キリストにおいて救いを完成させてくださった事実を記しています。この聖書には神に関わって生きたユダヤ民族の歴史が克明に刻まれています。その歴史は民族主義と世界主義の葛藤の歴史と見ることができると思います。

 民族主義は神に選ばれた「神の民」としての誇りと責任です。しかしこの民族主義は時として他民族を軽蔑、差別し、ひどい虐殺を生む偏狭にも走っています。当時は生存をかけた民族抗争に明け暮れた時代です。民族主義を高揚することで民族の内的エネルギーを養っていたことは事実で、理由のあることです。そこで「神の民」を自負する信仰は強力な支えになりました。しかし、聖書はあまりに偏狭な民族主義に対し神の世界支配の信仰から世界主義を訴えています。預言者たちの働きはそこに集中しています。そして、イエス・キリストは、汚れた人として口も利けなかった異邦人を受け入れ共に生きるように福音の世界性を鮮やかに示しています。

 さて、私たちは日本人として生まれ、日本民族の歴史と伝統の中で育ち生活しています。好むと好まざるとにかかわらず日本人として規定されています。ところが今日、物資は世界規模で交流し、もはや一国では成り立ちません。そして、地球の裏側のことが瞬時に伝えられます。以前に増して、国際的な友好と衝突が起こってきました。当然「国際化」ということが大きな問題になっています。この国際化について、日本は島国の特異な伝統をもち、更に戦後驚異的な経済発展をしたことと絡んで、厳しく問われています。

 私自身は、教会と自宅とプールの三角形を歩いているだけで、外国生活の経験はありません。しかし、昭和天皇の戦争責任問題、自民党の政治体質などから、日本人とは何なのかを世界史的な視点から考えなければならないと思わされています。

 民族に固有な文化・伝統を踏まえそれらと発展的に関わる責任があります。しかし、聖書にあるような偏狭な民族主義に陥る時、世界の孤児になるでしょう。独善的な他国否定になっていないかを見る相対的視点が必要です。生活はここ横浜ですが目は世界に向ける。世界の主である神を信じることは、見えない他国の人々ともその思いと生活を分かち合うことではないでしょうか。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.21