c. 「あと一年」(横浜港南台教会誌「若木」1989.6.25から)

 教会創立九周年を迎えました。神によるこれまでの導きを感謝し、教会生活を共にすることができたことを喜び合いたいと思います。

 教会はギリシャ話では「エクレシア」と言います。エクレシアは召された者の群という意味です。イエス・キリストに召し集められて、イエス・キリストを信じ、証する信仰共同体が教会です。日本語で教会は教える会と書き、教える教師と教えられる信徒がいる、いかにも日本的な言葉になっています。エクレシアは共なる会の「共会」の方がギリシャ語の原意に近いと私は思います。

 パウロはこの教会を「キリストの体」と言っています。また、建物にもたとえています。建物の場合、キリストは隅のかしら石、土台です。体の場合、キリストは頭です。土台から頭までキリストが貫いておられる。そこに、召し集められて建物の部品、体の肢体として教会を構成する。体は有機的な生命体ですから「キリストの体」という言葉は、生きた教会にふさわしいと思います。キリストの体は、足、手、口、目、耳などの肢体が有機的に伝道し、生きて働く生命体になる。パウロは教会を、そうとらえています。

 この教会は、まずイエスが主キリストとして信じられ、告白されるところです。イエス・キリストの十字架が罪の赦しであり、イエス・キリストの復活が神の永遠の命を啓示している。十字架と復活の主イエスに私の救いがある。それゆえにイエス・キリストは私にとって神であると信じ、告白するのです。神を信じることは、心の片隅でさざ波が起こったというようなことではありません。物の考え方と生き方が根本的に変わることです。私の体と魂を支え、生かし、導いてくださるのは、イエス・キリストであり、他の一切は神でないという視点を明確に持つことです。ですから、権力、財力、科学が万能の力をもって迫ってきても、それらを相対的なものとして位置づける。このキリスト告白が、教会の生命線で、それが歴史を救ってきたと言えます。私たちは二十世紀の終り日本の横浜に住んでいます。イエスのみを主キリストと信じ、告白する教会は、この時代をどうとらえ、どう生きるのかを、共に求め続けるように召されているのです。

 さて、イエスを主キリストと信じ告白する教会は、必然的に共同体の交わりを生みます。聖霊降臨日にイエス・キリストを信じた人々は、他国人であったにもかかわらず、言葉が通じ、教会が誕生したと伝えています。イエス・キリストを神として仰ぐ時、人間は地にあるただの人として認識させられます。そこでは自己絶対化が砕かれ、言葉と心の通じ合える仲間が与えられます。それが教会の交わりです。私はこの教会の交わりを信じています。罪ある人間の交わりですから、誤解も争いもあるでしょう。しかし、イエス・キリストが賛美されている所は、イエス・キリストの愛が支配いたします。この教会を信じ、望み、愛していくのです。そして、共に生きる共同体の原形を世に対して証するのです。ですから、教会は、常に開かれた交わりでなければなりません。

 私たちの教会は、開拓伝道の準備のための家庭集会が八年ありました。そして現在のプレファブの仮会堂での礼拝が始まって九年たちました。この礼拝堂での礼拝は、あと一年です。あと一年のこの年、共にキリスト告白に集中し、キリストの愛を広げる教会の業に参画できる喜びを生きましょう。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.21