a. 「新しい共同体」(横浜港南台教会誌「若木」1984.2.19から)

 私共人間は隣人と共に生きる社会的な存在です。私があるためには隣人がいなければならないし、隣人があるためには私がいなければならない。そういう共同体の中で、人間ははじめて人間になるのです。

 鴨長明は人の世の無常をはかなみ、方丈の庵の中で自然との合一を求めて、世俗を捨てたわけですが、やはり人を恋しく思う人間であることを私共はその書物を通して知っています。人間は隣人なしには生きられない、隣人と共に生きることを求める存在なのです。

 ですから、古今東西の全ての宗教、哲学、人生論は、この人間関係のあり方を教え、又論じているわけです。聖書も同じく、徹底的に信仰共同体の原理を教え、共に生きることの望みを示しています。

 聖書のいう罪とは、隣人を無視した人間関係の破れ、愛の喪失を言うのです。それに対し、イエス・キリストの十字架による罪の赦しは和解の福音で、これは人間関係の回復、隣人を見い出しこれを愛する真の人間になることへのうれしいニュースなのです。

 ところで、私共は本当の隣人を持っているでしょうか。共に立ち共に倒れる隣人を持っていると答えられる人は少ないのではないでしょうか。隣人を求めつつも、裏切りと中傷と虚栄の傷つけ合いの中で、失望し、心を閉ざしてしまう。又物質的繁栄が人より物に安らぎを覚える非人間化をもたらした面もあります。現代は隣人不在、人は大勢いるけれども、いつもポツンと孤独である。いやされない乾きの中で、人間であることを見失っている時代と言えるでしょう。

 そのような私共に対し、聖書はこう語りかけています。私共は隣人だけを見い出すことはできない。私とあなたとの間だけでは、それはいつも相手を自己の利益と楽しみのために利用する手段、道具でしかない。人格をもつ人間として私共の前に現われてこないのです。しかし、神と共に隣人を見い出す時、それは私共にとってかけがえのない隣人として深い安らぎと、大きな勇気を約束する友となるのです。神と共に隣人を見い出す。これが聖書の勧めです。隣人のいるところに神もいます。神のいまし給うところに隣人がいるのです。イエス・キリストは「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と語られています。これは地上における隣人との関わりは全て天に届き、神と関わっているという宣言です。隣人との交わりは、即、神との交わりであると言われているのです。ですからイエス・キリストは又「ふたり、または三人が、わたしの名によって集まっている所にはわたしもその中にいるのである」と語られています。私共の隣人との交わりのただ中に、復活されたイエス・キリストがいたもう。私は、このことを立体的三角関係と言っています。平面的な三角関係は、奪い合う敵対関係になりますが、立体的三角関係は、私と隣人との間に、しかも高きに 神が、イエス・キリストがいたもうということです。私共の交わりにイエス・キリストが臨在したもうことを信じる時、真実に愛する隣人を見い出すのです。そして、共に人間として生かしめられるのです。

 イエス・キリストを共に見上げた立体的三角関係の中に、新しい愛と真実に基礎づけられた共同体を形成していく可能性と現実性があるのです。そして、それがキリストの教会の姿です。

 神不在、隣人不在に苦しむ今日の時代にあって、私共のこれから形成する教会が、この信仰に固く立って、共に生きることの喜びをたしかに証し続けたいと思います。イエス・キリストを中心とした新しい共同体こそ、私共の望みだからです。

(横浜港南台教会秋吉隆雄牧師記)

最終更新日 2018.10.21