◇伝道師室より◇
8月6日平和聖日、私たちは沖縄出身で伊勢原教会牧師の佐久本正志先生をお招きして「罪の赦し」と題して説教をいただ
いた。師はヨハネT・1:5〜10からキリスト教信仰で大事なことは贖罪信仰であり、聖霊による神の赦しは人間を謙虚にし、
人と人との間に愛を与えると説いた。当時も今もある人間の赦しと違い、真に悔い改める贖罪信仰はキリスト者の生きざまに
あらわれ、神の実りを生む。悔い改めは罪を自覚し、告白することであり、贖罪信仰に生きることである。罪を告白すること
は人間にとって屈辱であり、痛みが伴うものである。痛むことなしに他者と和解することはできない。信仰は決断である。罪
を告白し、自らの敗北を経験して、神の栄光を讃えることである。信ずる時、神の恵みと永遠の生命があることを知らされる。
教会は告白と洗礼の共同体である。罪を赦す方は神一人であるとすべてを委ねる時、神の偉大さがそこにある。私たちは確か
にアーメンと言う時、そのお方の処に立ち帰るのである。
日本は今、もと来た道を戻ろうとする。神でない国家が一人の人間になろうとする。叙勲をして天皇に近い人ほど、神に近
い、清い有能な人、英霊として祭られる。罪を赦す国家に否とはっきり言わねばならない。人間的赦しが人間の清さをつくり、
罪赦しの図式ができる。日本が戦争を侵略戦争と認めず、天皇の戦責告白もない。日本は「君が代」のもとで天皇を讃美し「日
の丸」のもとでアジアの2,000万人を殺した。中国・朝鮮人連行、従軍慰安婦すべて事実である。歴史を塗り変えてはいけな
い。正しい共通の歴史観を学び、国家の罪を自覚しなければ先には進めない。アジアの人々との豊かな出合いを通して戦争の
悲惨、子孫の苦しみを知る者として謝罪が必要である。日本のキリスト者の使命は贖罪信仰の大切さを示し、罪を告白しその
赦しと新しい生命のすばらしさを証しすることである。キリスト者が動かないで誰が動くか、と結ばれた。
説教は私たちの心に重く迫ってきたのではないでしょうか。午後の「沖縄が問いかけるもの」の講演では、
私たちが見えない沖縄の問題を、あたかも見えるかのように出発するところに問題があることを知らされた。
その詳しい内容については、社会委員会通信をご覧ください。