牧師室より

 私たちの社会は、いくつもの人権問題を、複雑な形で抱えている。人権に関わる問題を表現する際、私もうっかりと、「……問題」などと表現してしまうことがある。「……」には差別されている側の事柄が入る。しかし人権問題は、差別される側に責任があるわけではなく、その多くは差別する側の責任だ。少し複雑なのは、差別される側もまた、差別する場合があることだ。

 『ビッグイシュー』(最新号431号)という雑誌に、ドキュメンタリー映画 『私のはなし 部落のはなし』を製作した満若勇咲(みつわか ゆうさく)監督へのインタビュー記事が掲載された。特定の地域や職業を取材すると、「逆に差別の構造に加担するのではないか」との懸念から、模索する中で出会ったのが「話すこと」だったという。知り合い同士が集まった場で、自分が受けた差別や思いを自然と話し合う様子を見ていて、その「話すこと」の中に、差別の問題が分かりやすく現れていることへの気づきを与えられ、それを撮影することにしたのだという。

 差別とは、文献や資料、歴史研究の中にあるのではない。意識されていない日常のただ中にあって、社会の一要素として確実に存在し、日々、人を傷つけている。格差の深化や戦争によって、あらたに差別が生み出されつつある昨今である。機会があれば、ぜひこの映画鑑賞したいと思った。         (中沢譲)