牧師室より

 クリスマスおめでとうございます。

先月、当教会の礼拝堂を会場に、教区の集会がありました。開会礼拝の説教は関田寛雄牧師でした。沖縄教区との合同を考えることがテーマの集会で、百人近くが集いました。

前日は大雨警報発令で、やや多量の降雨でした。その前の台風の時も少し天井にシミができる程度の雨漏りがあったのですが、今回は、深夜に事務室で印刷機を動かしていた譲牧師が、礼拝堂の天井から雫が滴っているのに気づき、バケツを置きました。集会当日の朝になり、始まる前に暖房を入れておこうと礼拝堂に入ったところ、なんとなくの違和感で講壇付近に目をやると、灰色のしっくいのようなものが飛び散っているのが見えました。近づいてみると、天井板の圧縮パルプのような素材が、雑誌見開き程度の大きさで、落下したことがわかりました。雨漏りの水を吸って重くなり、木枠は残してパネル状の素材だけが落下したらしいのです。集会の開会礼拝まで1時間ぐらいの時で、先ず思ったことは、説教中の関田先生の頭上に、これが落ちなくてよかったということでした。急いで片付けて、集会は滞りなく(講壇の隣には、雫受けのバケツが鎮座してはいたものの…)進行できてほっとしました。

 立て続けの台風や大雨で、工務店はどこも大忙しです。教会の営繕でいつもお願いしている業者さんも、多忙を極めておられ、それでも年度内に天井は修繕されるでしょう。

正直なところ、礼拝中に穴の開いた天井を見上げるたびに、少し愉快な気持ちになります。そうか、シモンの家で人々に語られていたイエス様の頭上に、穴をあけ病の友人をそこからつり降ろした人々がいたなあ。関田先生は屋根材を浴びなかったけれど、イエス様は浴びてしまって、埃だらけになられたのだろうなあ。あるいは、イエス様の受洗の際、天が開け、聖霊が鳩のように降ったとの福音書の聖句が、連想されたりもして。年月を経て少しくたびれた礼拝堂に、大勢の人が集まってクリスマスを祝っている、その天井がやや薄くなって、わずかながら天との隔たりが減っている教会もまた愛し、ではないでしょうか。 (中沢麻貴)