牧師室より

最近、エレミヤ書と格闘している。「旧約を読む会」のテキストに取り上げたので、準備を少しずつしているのだが、この預言書は、なかなか“難敵”と、じわり思い知る。

旧約聖書に収められている三つの長編預言書を、三大預言書と呼ぶことがある。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三預言書のことだ。イザヤ書とエゼキエル書には、それぞれ時系列の枠組みのようなものが感じられる。イザヤ書は、第一から第三イザヤと便宜的に呼ばれる、時代の変遷に沿って、課題を担う預言者の系譜が見て取れる。最初のイザヤが担った課題が、そうして受け継がれていく様を、私は「シャネル」ブランドで、ココ・シャネルからカール・ラガーフェルドまで(あるいは今後も)スタイルやコンセプトは継承しながらデザイナーが変遷するのと似た現象として理解している(不謹慎だったらごめんなさい)。エゼキエル書も、預言内容は幻想的だが、発言の仕方に、エゼキエルという人間の“個”が比較的はっきり感じられ、さらに要所ごとに年代への言及があり、預言の建て付けが見てとれる。

しかし、エレミヤ書には、時系列があるような、ないような。詩文と散文も入り混じる。預言者自身と後代の編集者による注がその中で入り混じる。何よりも、例えば主語が「わたし」となっている、それが神様なのか、預言者なのか、すらも、見極め困難なのだ。注解書を紐解いても、ある一冊に「ここでの一人称の主語は神で…」とあるが、別の一冊を開いたら、同じ個所について「ここで預言者が一人称で語っているのは…」とあったりする。エライ先生方もあてにはできない。けれども、エレミヤ書を開き、にらめっこしているうちに、時代に翻弄されながら、そこで命がけで語っている預言者の言葉に、いつのまにか捕らえられていく感があるからやめられない。難敵に魅了されつつある自分に気づく。

 エレミヤの詩は、まるで井上陽水の詞みたいに魅力的だけれど曲者だ、と思っていたら、偶然ロバート・キャンベル著『井上陽水英訳詞集』を見つけ衝動買いした。ここに手がかりを見つけた感じがあるので、次の機会に少し紹介したい。(中沢麻貴)