牧師室より

今年も11月を迎えました。カトリックに属する友人が、11月を「死者の月」と呼んでいたので、私もそのように表現することがあります。

 今年は私にとっても特別な時です。今年の2月に父が天に召されたからです。献体だったので、葬儀は行わず、そのかわりに5月に記念会を行いました。この会が実質的な葬儀でしたので、遠方からも父の知人たちが集まりました。

今回はじめて遺族の立場になったので、私は遺族席に座っていればよいと油断していたのですが、なぜか私に司式をして欲しいと、母が属する教会の牧師から頼まれました。肉親の死ははじめての経験でしたので、複雑な心境でしたが、結果的には引き受けました。

 私は牧師の息子でしたので、自分の自宅でもある教会で、葬儀が行われるのは普通の光景でした。式に参列していて、子ども心に「嫌だなあ」と思ったことは、遺族代表の挨拶でした。自分の番が回ってこないようにと願いつつ、葬儀に参列していたことを今回、思い出しました。

 数年前に横浜港南台教会ではじめた永眠者名簿に、今回、父の名前を加えさせてもらいました。父が横浜港南台教会を訪れたのは、私の就任式(20146月)の時だけですので、この教会との関わりは深くはありませんが、名簿に入れたことで、少し父が身近になったように感じています。

 パウロは、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ320)と信仰を証ししました。この言葉には、いつも慰められます。どこに葬られても、どれほど時代が変わっても、所属する教会や教派が異なっていたとしても、最後に私たちは皆、一緒に、神様のみ腕の中に置かれるのだということを知らされるからです。

 今はインターナショナルな時代。地上の国籍など気にせずに移動できる機会も増えました。天の籍に属するキリスト者たちもまた、自由に、神様に愛される人生を謳歌できるのではないでしょうか。召天者と向き合うこの機会に、自分がどこに属する者であるのかを共に思い起こしたいと思うのです。    (中沢譲)