牧師室より

かつてネパールを旅した時、カレーという料理は、インドやネパールには無いということを知った。魚が入ったベンガル風、乳製品が入って濃厚な北インド風、ココナツミルクやタマリンドが入り、水分多めでしゃばしゃばした南インド風、カトマンズで食べたタケノコや干し大根入りのネワール族の煮物、チベット難民の集落でごちそうになったヤクの干し肉と、どう見ても糸こんにゃくらしきものが入った一皿…どれも野菜とタンパク質の素材が入って、日本人の私の舌にはカレーと感じる特徴のあるスパイスで風味を付けた煮物だが、カレーという総称でくくるには、多様性がありすぎた。ついでに言えば、埼玉に住んでいた頃、駅前に急にできた中華料理店で麻婆豆腐を注文したら、日本語の通じない厨房から供された一皿は、口に含むとカレー味をとっさに感じるクミンの効いた味付けで面白かったことも思い出す。「カレー」の多様な拡がりは、日本で言えば、「鍋料理」の多様性に通じ、しかも国境を越える。

そんな経験をしたせいか、私は「日本食」とか「日本文化」というくくり方にも違和感がある。そして、皇室をめぐる諸行事のありようを、古式ゆかしい日本の伝統文化なんて表現するマスコミの報道に、その違和感がいや増す。天皇家には、それなりに古くから伝わるしきたりや所作があるのかもしれないが、それが日本という国家の伝統や文化であると表現されても、どうもぴんとはこない。加えて、「即位礼正殿の儀」とカレンダーに印がついて、国民の休日になっていることを自分がどう受け止めたらよいのかが、わからない。なぜ万歳なのか。なぜ自衛隊が祝砲を撃つのか。なぜ恩赦があるのか。海外メディアが、日本人にとって大切な儀式だと報じているらしい。異議を唱えたいのだが、とっさに言葉がみつからない。この違和感は、わたしが「服わぬ(まつろわぬ)もの」だということを示唆しているのだろうか。       (中沢麻貴)