牧師室より

最近、よく夢を見る。そこでこれは何だろうと思い、まずはウィキペディア(インターネットのフリー百科事典)で「夢」を調べてみた。そこではこのような説明があった。

1睡眠中あたかも現実の経験であるかのように感じる、一連の観念や心像のこと。2睡眠中にもつ幻覚のこと。3将来実現させたいと思っていること。願望。願い」とあった。その他にも詳しい解説が記されていたが、学問的なこと、精神医学的なことに関心があったのでもないので、ここはシンプルに、睡眠中に見る夢の話をしたいと思う。

かつて農村伝道神学校の神学生時代にも、よく夢を見た。もう20年以上前のことだが、当時、若くして天に召された友人が何人もいた。その友人たちが、毎晩のように夢枕に立った。「なんだ、そこに居たのか」と互いに笑い合う日々が続いた。夢の中とはいえ、会えることで慰めを得ていた。

その夢について当時、自分なりに考えたのは、神学校に入る前と、入った後との生活のギャップがあまりにも大きく、それが原因で、天籍にある友人たちのことを夢見ているのだと自分なりに解釈していた。

先日、この牧師室で「レンタル何もしない人」さんを紹介した。彼のエピソードで、自分の夢の話をノートに書き留めて、それを「レンタル何もしない人」さんに読んでもらうという人の話があった。文書に書き留めることができるほど、夢を記憶している人も珍しいと思ったのだが、ふと自分も、覚えている夢があることに気がついた。

最近、よく見る夢は、神学生時代に見ていた、若くして天に移住した友人たちとの夢の続きである。そもそも夢を見ている最中に、ずいぶんと懐かしい場面で、これは20年前の夢の続きだと思いつつ、夢を見ている自分がいるのだ。

仏教のお坊さんであるならば、友人たちの“菩提を弔う”ために宗教者になったという人もいるのだろうが、残念ながらキリスト教の坊主の場合は、日常的に死者を弔う儀礼がない。なぜならば、死者のことはすべて、神様に任せているからだ。似たような可能性として考えられるのは、葬儀という名の礼拝と、墓前礼拝くらいのものであろう。

 私は楽観的な人間なので、いつか懐かしい友人たちと会えるなら、天に召される時もまた楽しみだと感じた次第。世間では食欲の秋、文化の秋などという季節だが、私は夢見の秋を楽しみたい。  (中沢譲)