牧師室より

学生時代、つけ払いで飲食する無頼派の知り合いがいて、勇気があるなあと感心したのを思い出す。「つけ」を成立させているのは、それをやがて支払うだけのお金を、これから時限をきって稼げる自信のある客と、この客はそれができるから許すと見抜ける店との間に成立する契約だ、と感じたものだ。実態は、そんなにカッコよいものではなかったらしいのだが。「つけ」が支払われなければ、客は罪人となり、店はやがてつぶれる。

 「もしあなたたちが期待を裏切り続けるなら、私たちは決して許しません」。国連の温暖化対策の国際会議に招かれた、スウェーデンの16歳の環境活動家は、そう述べた。温暖化というつけを支払おうとしない大人たちへの督促状と受け止めたい。一方、我が国の環境大臣は、温暖化対策について問われて、この問題への取り組みが、カッコよく素敵に見えることが大事だという主旨の発言をし、少々話題になった。「よく、そんなことができますね。あなたたちは実体のない言葉で、私の夢を、私の子ども時代を奪ったのです」という、あの16歳の活動家が演説の中で放った言葉は、まさにこうした大人の態度を批判しているのに。日本の政治を、空虚のドス黒い霧が覆い、その下で温暖化が一段と進展し、人々の生活を傷ませる腐敗と暴風雨が増しているような気持ちになる。もはやつけのきく状況ではないのに。

1997年の京都議定書制定当時、学生として環境問題に取り組んでいた友人が、千葉の農村地帯で小さな工場を営んでいる。台風被害が心配で、少し長い手紙を書いた(停電エリアに電話やメールは迷惑なので)。茨城で農業を営んでいる友人には、メールで安否を問うた。かつて彼女らに、教室で温暖化について授業した私には、問題解決への参与に手を挙げたこの若い人々に対し、協力し連帯し続ける責任があると感じる。幸い、どちらも台風被害は軽微で、温暖化について今何ができるか語り合った。カジノへの投資じゃないことだけは確かだ。      (中沢麻貴)