牧師室より

 「毒麦のたとえ」というイエスの教えがある(マタイ13:24)。天国のたとえ話として語られているのだが、良い種が蒔かれた畑に、なぜか毒麦が入り込んだ、という話である。僕たちが毒麦を抜きましょうかと申し出るが、畑の主人は、刈り入れの時までそのままにしておきなさい、と命じて、たとえは閉じられている。

 このような話を聞く時、私たちは誰が毒麦で、誰が麦であるのかと考えるかもしれない。しかし現実の世界では、人を毒麦と麦に分けることができない。なぜならば、誰もが神に対して麦であり、毒麦でもあるからだ。それゆえに、人が勝手に神の代理人だと自称して、他者を裁くのを止めよ、裁きは神に任せよ、というのがこのたとえの、本来の主旨なのだと思う。

 旧約聖書に登場するサムエルは、年老いてもなお、苦労を重ねた人物である。彼は預言者として知られるが、最後の士師でもあった。彼は士師としてイスラエルの民を指導してきたが、年老いた時、二人の息子にその職を譲った。しかし息子たちは、正しい裁きを行わず、賄賂を受けとって真実をねじ曲げる政治を行った。そのためイスラエルの民は、サムエルのところにやってきて、自分たちのために「王をたててください」(サム上8:5)と願い出た。しかしサムエルには民の願いが「悪と映った」。 

にもかかわらずサムエルは、自分の考えに従うのではなく、神に祈り、神の意志を尋ねた(同86)。そして神もまた、王を立てることを快く思わなかったが、民の願いを聞き入れたことにより、サムエルは神の代理人として王を任命することになる。

結果として王を立てることになってしまったことを反省し、今後は民のために無理な執り成しをして、神に対して罪を犯すことはしないとサムエルは宣言する。そして「あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい」(同12:23−)と語り、預言者に徹する道を選択した。

年老いてなお、自分の経験や知識に頼らず、まずは神に尋ね求め、神の御心に適う人生を求めるサムエルの姿に、自戒の念を込めて学びたいと思う。       (中沢譲)