牧師室より

平和を考える月の最後の週、取り上げたいのは天皇制の問題である。キリスト教徒でありながらも、「天皇陛下万歳」と発言する人も実際にはおられる。ゆえに信仰の問題として天皇制について考えてみたい。

天皇制(この言葉は日本共産党による造語だが、現在では広く使われるようになった)に反対を表明しているのは、キリスト教関係者だけではない。広く宗教界にも存在し、また市民運動の中にも存在する。宗教者が天皇制に反対を表明するのには理由がある。「信教の自由」の問題があるからだ。多くの日本国民は気にしてないが、天皇は国家神道の「神官」である。たとえば、天皇は毎年、豊穣を祈るために「新嘗祭」(にいなめさい)を行っている。天皇が代替わりして最初の新嘗祭は、「大嘗祭」(だいじょうさい)と呼び、宮中で天皇は神官としてその儀式に臨む。この点から天皇を、神官の中の神官、「大神官」と表現することもできるだろう。かつての大嘗祭では、西と東の国境に近い場所で収穫された米を天皇は食したという。つまり領土の広さの確認という意味も持っていたのだ。農業神の神官というだけでなく、支配者の交代という意味も、大嘗祭に含まれていたことになる。その政治的神道儀式を経て、新しい天皇が誕生してきたのである。

農業の神と言えば、旧約聖書の列王記にも頻繁に登場する。たとえば列王記に、[エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。](列王記上1821節)とある。この場面、預言者エリヤがバアルの預言者たちと雨乞いの対決をし、エリヤが勝利した話である。カナンの地を与えられたイスラエルの民は、農業を行うようになっていた。そこで直面したのが、カナンの神バアルの問題であった。渇いた地カナンでは、水の確保は重要な問題である。そこで民は、主なる神から離れ、治水の神でもあるバアルを信仰するようになっていた。エリヤには、主なる神こそが全知全能の神であることを証明する必要が生じていたのだ。

唯一の神と農業神との対決は、神とこの世的な力(偶像)との対決でもある。日本基督教団もまた、誕生の時からその問題を抱えてきた。天皇制がシステムである以上、天皇はキリスト者にはなれない。国家神道の大神官であるからだ。そのことは皇室の側もよく理解している。ゆえに秋篠宮による大嘗祭の費用の支出等に関する発言があったのだ。

この問題に無自覚であることは、とても危険なのだと思う。                   (中沢譲)