牧師室より

生物教師をしていた頃、春先に中学の実習で、顕微鏡の練習もかねて、タマネギを材料に植物細胞の観察をしたり、自分の頬の内側の粘膜細胞を観察したりしたものだ。植物も動物も、細胞を基本単位にして体ができているという納得は、細胞は生命の基本単位であるという近代的な生物観を学ぶ上で重要なのだ。

 旧約聖書創世記の天地創造の次第を読むと、命あるものとして言及されているのは動物のみで、植物は同じ「生き物」というくくりには含まれていないことに気づく。それはそうだろう。植物も動物も基本単位が細胞で、生命現象はそのレベルではかなり共通点が多いということに人間が気づいたのは、1800年代に顕微鏡が発達して以降のことだから。

 ところが、生物学のさらなる発達により、バクテリオファージという存在が知られるようになり、細胞を基本とした生物観は揺らいだ。これは、細菌(バクテリア)の体内で増殖するウイルスの総称だ。略してファージとも呼ぶ。ファージには細胞膜に包まれた細胞はない。あるのは、たんぱく質でできた外殻と、その内側にあるDNAなどの核酸だ。大雑把に説明すると、自力で分裂したりして増殖することはできないが、細菌の外側に取り付いたファージが、細菌の体内に自分の核酸を注入すると、細菌の体内物質を材料に、その核酸が外殻を作り出し、ファージの形になり、それが細菌の体を内側から溶かして放出されるという増え方をする。むき出しの核酸や、使い捨て(?)のたんぱく質の殻は、それだけでは、ただの物質で生物とは言えないのだが、細菌に寄生するような形で増殖はするので、生物と物質の境界線的存在だと言われている。

生物仲間が集まると、自己保存と増殖に必要な最低限のものしか持たない特化を遂げたファージと、多機能で複雑怪奇なヒトと、どっちが生命の究極的な姿か、などと議論したものだ。

 旧約聖書では、人が真剣に誓うとき、「主は生きておられる」と言ったりする。新約聖書では、「イエスは復活された」と言う。時に人格を持った存在として姿を示される神様は、底知れぬ奥深さから、ずいぶん私たちに歩み寄ってくださっているのだろうか。       (中沢麻貴)