牧師室より

 イースターおめでとうございます。

 個人的なことで恐縮ですが、私はイースターに受洗したので、気が付けば45回目の誕生日(新生日?)となりました。神学校で学んでいた頃、驚いたことのひとつは、牧師になろうと献身し、神学生になる人の中には、受洗して1、2年という人がけっこういたということです。しかし旧約聖書では、祭司の家に生まれたエレミヤは、二十歳になるやならずで、預言者として召命されたらしいですし、新約聖書でも、イエス様は、ユダヤ人社会において義から遠いとされた徴税人を、出会ってすぐさま弟子にされたこともあります。神様に目を付けられた人は、サッと働き人に用いられる感じがします。それに比べれば、私は放っておくとアブナイ感じだったので、神様から早々に首根っこを押さえられましたけれど、働き人になるためにお呼びがかかったのは、随分後回しだったというわけです。親しい旧友たちには、「私が牧師をしているということは、教会周辺もよほどの人手不足である証拠なのである」と述べている次第です。そして、私はずうずうしいので、イエス様のぶどう園のたとえ(マタイ201節〜16節)を思い、早くに召集された方々と、同じお給料を神様から最後にいただけると信じています。個々の人に対する神様の計画は、比較したって仕方がないのですね。しかし、洗礼を授けてくださった牧師から言われた、これで何かあったら立ち帰る原点ができたということだね、という言葉を、いつもイースターに思い出します。

 クリスマスには、冬の暗い夜の闇の中に、希望の光が見えてくる印象があります。イースターには、春の夜明けに、すがすがしい風が吹いてくる印象を持ちます。季節と祝祭日との関係には、後付け的な要素もあるのですが、イースターの礼拝を、はじまりの朝として皆さんと共に迎える喜びは、格別のものとしてあるのです。      (中沢麻貴)