牧師室より

 [それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。](ルカ9 23節)。

この言葉は、よく知られていたイエスの教えである。マタイにもマルコにも並行記事があるが、多くの人々の心に、何か響くものがあったのだと思う。

ただし、各福音書の伝承は少しずつ微妙に異なっている。マルコ版は、「わたしの後に従いたい者は」と

なっているが、マタイ版とルカ版では「わたしについて来たい者は」となっている。また語られた対象も異なっている。またルカ版には、「日々」という言葉が加えられている。この「日々」という言葉は、ルカ版が教会という場で語られたことを想像させる。

わたしについて来たい者は」という言葉には、強制の意味はない。従おうとする側の自発性や決断が問題とされている。イエスに従う条件は、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ことだ。自分を捨てるというのは、自分の人生を捨てるとか、自分の命を空しくする、という意味ではない。イエスが教えているのは、「自分を神に明け渡す」という意味である。自分の人生の中心にあるのは神であるということを、「日々」確認することが、イエスの弟子に問われているのだと思う。

ここで大切なのは、「自分の十字架を背負う」という言葉である。すでに私たちは自分の十字架を背負っている。個々の人生を、誰も代わりに背負うことができないのと同様、イエスに従う道もまた、誰一人として同じではない。見つめるべきは、ただ主イエスの背中、「わたしの後」なのだと思う。

                                         (中沢譲)