牧師室より

 主の受難を覚えるこのとき、現代の“十字架”を思う。

 昨年7月、オウム事件の死刑確定者13名の死刑が執行された。大量執行が話題となった。その理由は定かではないが、2019年に即位礼・大嘗祭、2020年に東京オリンピックが控えているため、恩赦の対象にならないように、先んじて刑を行ったのではないかと言われていた。オウム幹部たちの死刑執行の前夜、自民党はパーティーをしていたという。ある聖書の箇所を思い出した。サロメが洗礼者ヨハネの首を求めた話である。これはヘロデ王の宴の中で起きた事件であった。

 オウム事件関係者の死刑執行で、失われたものは、被告の命だけではない。なぜ事件が起きたのか。事の真相は明らかになったのだろうか。そうした疑問と共に、私たちキリスト者にとっても関心のある、被告たちの悔い改めの機会……そうしたものが突然、ゲームのように強制終了させられたのである。

そしてもう死刑は行われないだろうという淡い願いを見事に裏切り、昨年12月にも2名の執行が行われた。もはや代替わりもオリンピックも関係ないのである。現代のポンテオ・ピラトとも言うべき我が国の法務大臣は、「十字架につけろ」と圧力をかけてくる法務官僚の言いなりで決済印を押しているだけなのだ。

自己保身の結果としての十字架という出来事に、「『仲間を赦さない家来』のたとえ」(マタイ18:2135)を思い出した。     (中沢譲)