牧師室より

フェイスブックで交流している、年齢が340代の友人が数十人いる。十年間の教師時代に出会った人たちだ。女学生だった彼女らは、立派な大人になり、仕事や子育て、他にもなにかと忙しいお年頃。自分の時間などほとんど無い日々の中でも、海外在住でさえ、互いの消息を瞬時に報告しあえる仕組みの恩恵を感じる。

 今年86日、そのうちの一人が、「さっきテレビで、佐伯敏子さんのことにふれていました。昨年亡くなられたのですね」という主旨のコメントを発信したのに気付いた。コメントには、学生服の彼女と佐伯さんが、広島平和記念公園で並んで写る写真が添えられていた。写真右下には、199510月の日付が見える。

 高校二年生の京都・奈良への修学旅行のスケジュールに、広島での平和学習を入れられないだろうか、との無謀とも思える提案を、同じ学年を担当する教師たちのミーティングで最初に聞いたときは、正直実現できるとは思えなかった。提案者は、当時学年主任だった田中惠美子さん。いろいろ大変なことはあったが、戦争の真実を体験として語れる方々から直接お話を聞ける時間は、刻々と短くなっているという危機感を共有して、修学旅行での広島行きが実現した。一泊すらできない短い時間で、平和資料館の見学と語り部の方のお話を伺うというプログラム。その中で、ぜひこの方のお話を生徒に聞かせたいとお願いしたのが、佐伯さんだった。前述95年は、私にとっては二回目の広島旅行引率だった。

 原爆ドームに加えて、平和公園の資料館や慰霊碑、佐々木貞子さんをモデルとした原爆の子の像などは、広島を訪れたことがない人々にも知られたシンボル的存在だ。しかし、同じ公園内に、7万人もの被爆者の遺骨が収められた地下室を抱く土饅頭があり、原爆供養塔として、今も引取る人のいない遺骨となった死者たちの眠る場となっていることは、あまり広く認識されていない気がする。佐伯敏子さんは、1998年に倒れるまでほぼ毎日、喪を示す黒い服で慰霊塔の周囲を掃除し、訪れる人に原爆と供養塔のことを説明し続けた。骨箱に付された古紙を手掛かりに遺族を独力で探し出したこともあった。やがて語り部としての佐伯さんの存在は、教育現場でも知られるようになっていった。

 いま手元に、『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』という本がある。ぜひ、一読をお勧めしたい。著者堀川惠子氏は、69年生まれのフリージャーナリスト。この本に、佐伯さんの人生も丹念に記録されている。佐伯さんと堀川さんの言葉を、胸に刻む8月となった。   (中沢麻貴)