牧師室より

 「涼しいうちに勉強してしまいなさい」。子どもの頃、夏休みになると、母からよく言われたものである。朝食後、食器洗いか洗濯を手伝って、それから机に向かい、十時には勉強を切り上げて、あとはどうやって暑さをやり過ごすか考える、そんな日々。母の書棚からドストエフスキー全集を引っぱり出して、扇風機の前に陣取り、片っ端から読んでいった。エアコンはなかったから、室温は常に30度超えだったけれど、冷蔵庫はあったので、自家製のアイスキャンディーを食べた(市販のアイスは、溶けずに買って帰れる距離に店がなかった)。午後の一番暑い時間になると、母と「切通しに行こうか」と、どちらからともなく声をかけあい、家から数十歩の、森の切通し道へ涼みに行った。頭上にカシやクヌギが茂り、切り開かれた土壁からは常に地下水が染み出ている舗装されていない道。通る風に涼み、「ああ、天然のクーラーだね。生き返る」と。帰宅して夕陽に焼けるトタン屋根にホースで水撒きし、鈴虫の鳴くころに、ようやく一息つける気温に。

 今の時代、エアコンのスイッチを切ったら命の危険を感じる夏になってしまった。過去の記憶にある、ゆったりと時間の過ぎていく夏を取り戻したいと思っても、ただエアコンのスイッチを切るだけでは、駄目だ。それでは犠牲者が出るだけだ。地球規模の気候変動をどうするか。この宿題の解決には、涼しいうちの勉強だけではすまない深刻さが潜んでいるように思う。この酷暑に、みんなで適応的に生き延びる術を考える一方で、この気候変動や酷暑に、人為的何かが原因するのなら、それを取り除く方法が、手遅れでなくあるのかどうか、人類は必死で考える時期にきている気がしてならない。

 「渇いた喉に冷たい水。遠い地からの良い便り(箴言2525)」。ふだんは、目の前のことに対処するので精一杯という感じがあるが、八月になれば、集会はお休みをいただくので、少し顔をあげて首を伸ばし、耳をそばだて、遠くまで目線をやって、「良い便り」を探したい。(中沢麻貴)