牧師室より

悲しい事件が後を絶たない。先月「のぞみ265号」の車中で、青年が鉈(ナタ)を振るって、乗客に襲いかかり、止めに入った会社員の男性が犠牲になった。この犠牲になった男性の判断力と対応力が、他の命を救ったという胸の痛む事件であった。同じく先月、富山県の派出所が襲撃され、警察官が死亡。その際、拳銃が奪われ、その拳銃により、今度は小学校の警備員の命が奪われるという痛ましい事件が起きた。

 どちらの事件にも、共通した点がある。一つは、犠牲になった方たちには何の瑕疵もないという点だ。

もう一つ共通点がある。それは罪を犯した青年たちが、自分の死を願って、無差別に人を襲ったのでは、と想像させる点である。複数の人間の命を奪った場合、死刑になる可能性があるからである。だとすると、彼らはなぜ、死を望んだのだろうか、という点が気になる。

さらにもう一つの共通点を挙げるならば、それは世間の目だ。両事件の犯人が希望した通りの結果を、世間は期待しているのではないか、という点だ。

そう考えてみると、これらの事件は、事件が起こる前から始まっていたのでは、という疑問が生じてくる。多くの人の合意を得られないかもしれないが、彼らが自らの死を望んで罪を犯したのであるとするならば、それはこの社会に居場所を見いだせず、生きづらさを感じていたからだと思うのである。そしてそのことは、彼らの勘違いではなく、実際に、彼らを孤立化させる人間関係の現実があったのだと想像する。

話は変わるが、『暴力の世界で柔和に生きる』(ジャン・バニエ、スタンリー・ハワーワス、日本キリスト教団出版局)という書を手に入れた。これは、米国にあるデューク大学神学部内にある「和解センター」が発行した書籍の翻訳本である。知的障がい者と共同生活をするコミュニティ「ラルシュ共同体」の創設者ジャン・バニエは、「イエスは、ピラミッドのような階層社会ではなく一つの体となるようにと、私たちを招いておられるのです」と語っている。この場合の「一つの体」とは、「知的障がい者」だけが想定されているのではない。あらゆる「障がい者」や「発達障がい者」をも内包した言葉だと受け止めた。

つまり、事件は、罪人を排除することでは解決はしないのである。イエスがそうであったように、隣人を受け入れる社会の構築こそが必要なのではないだろうか。  (中沢譲)