牧師室より

 季節は、梅雨のただなかである。近年、気候変動と地球温暖化の関係が深刻に議論されているが、散歩の途中、田植えの終わった田んぼの上に、ネムノキが淡い色合いの花をたくさんつけた枝を伸ばしているさまを、雨の煙る中に見かけ、今年も、ひとまずよかった、よかった、という気分になった。米作り達人の、「梅雨によく降り、夏によく照る」が、豊作の条件という言葉を思い出す。

聖書の背景にあるパレスチナ地方は、雨期乾期がはっきりしている気候だが、雨期序盤の「秋の雨」と終盤の「春の雨」は、農作業に重要な意味を持つ。聖書では、新約より旧約のほうが、雨への言及が多い。新約の言葉を紡いだのは、比較的都会的な人々で、旧約の言葉を紡いだ人々のほうが、より生活に農林畜産業が密着していたせいかもしれない。

 モーセやエリヤは、雨の降り方を左右させることで、人間の支配者に神様が優位であることを思い知らせた(出エジプト記9章、列王記上18章)。預言者たちも、イザヤは、「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない(イザヤ書5510」、ホセアは、「主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように(ホセア書1012」と預言した。ダビデの歌には、「暗い雨雲、立ち込める霧」を、神様が住まう幕屋とする表現がある(サムエル記下22章、詩編18編)

 申命記32章「モーセの歌」のはじめのほうに、「わたしの教えは雨のように降り注ぎ」とあり、讃美歌58番『み言葉をください』を連想した。作詞者の今駒泰成氏は、現代の「混乱と殺戮」の原因を、人の世の「ことばの不通」に見て、その回復のために降り注ぐ雨のような「みことばをください」と求める詞を書かれたそうだ(『讃美歌21略解』より)

 箴言27章に「降りしきる雨の日に滴り続けるしずくと/いさかい好きな妻は似ている」とあり反省(?)

 晴耕雨読。雨の日の読書に、聖書は如何でしょうか。  (中沢麻貴)