牧師室より

 日本には「能」という文化がある。残念ながら私は、一度も鑑賞する機会がないのだが、秀成氏(金沢大学准教授)という民法学者が、ある雑誌()に『異界を旅する能 − ワキという存在』安田登著、筑摩書房2011という書を紹介していたので、手にしてみた。以下、紹介したい。

能(夢幻能)の登場人物には、シテとワキという存在がある。シテは、地上に思いを残した霊魂であり、そのために成仏できずにいて、地上に現れる存在である。ワキは生者であり、旅人であったり、僧侶であったりする。そのシテとワキが出会うのが、能の世界なのだという。そしてその対話は、ワキがシテに問うことからはじまる。

物語の中心は、シテの語りである。ワキはただ、その話を聴くという役回りである。シテは生者であるワキに、自らの思いを語り、思いを晴らし、やがて成仏する。

この書の紹介者である秀成氏は、

ワキがなぜ、シテと出会い、問うことで語りを引き出し、思いを聴き出すことができるのか、という点に関心を持ち、本書(安田登氏)が、ワキが「無力」である点に注目したことを高く評価する。

ワキ役は、旅人や僧侶であると紹介したが、ワキが旅人(僧侶)であるのは、彼らが無力な存在であるからだという。ワキは社会の周縁に置かれる存在であり、それゆえに苦悩を抱く存在であり、自分を無用な者であるとみなし、旅人(僧侶)となった存在なのだと分析する。そのように、己を無化していく存在としてのワキが、シテに出会えるというのだ。その「無力」であるワキが「問う」ことで、「弔う」(とう)という役割を果たすことになる。

「能」の世界は、キリスト教の世界とは異なるが、葬儀を準備する者としては、天に召された者に「問う」という点で共感できるものを感じる。「問う」のは、召天者の地上での歩みを知るためである。そして地上に遺された者たちへの「思い」を引き出し、遺された者たちへのメッセージを整えるのである。角度こそ異なるが、「問う」ことで「弔う」のが、キリスト教の葬儀であると、本書から知らされたように思う。(中沢譲)

※「法学者の本棚」『法学セミナー』(日本評論社201711月号)