牧師室より

 十代のころ、カッコ良く生きる大人になりたいと、漠然と思っていた。今考えると、「カッコ良く」の中身について、さして考えがあるわけでもなく、形ばかりの追求でじゅうぶん軽薄だったのだが。それでも、日々カッコ良さの追求にいそしんでいたのを思い出す。通学に使っていたバスや電車の車内で、空席ができたときにサッと座るのは「カッコ悪い」ので、カバンが重くても平然と立ち続けるのを良しとしていた。期末テスト直前の日曜日、勉強のために教会を休むのは「カッコ悪い」ので、本心は勉強不足が不安でも、平然と礼拝と中高生会の活動に出席し、テストのテの字も匂わせないのを良しとしていた。テストの点数がどうであっても、「どうだった?わたし最悪」「え〜、たぶんわたしのほうがひどい点かも」などとけん制しあってきゃあきゃあ騒ぐのは「カッコ悪い」ので、どうだった?と級友に聞かれれば、「98点」とか「42点」など、平然と点数を暴露し、相手に沈黙されるのを良しとしていた。物理で27点をとった時は、さすがに青ざめて、親友に「今日ばかりは言えない」と言ったら、「わたしも」と。二人で答案を見せ合ったら、同点だった。

 あの十代の感性が、今も自分の内面に残存しているのを感じる。指導者の恫喝やハラスメントに屈して犯してしまった過ちを、人前で告白して詫びるスポーツ選手は「カッコ良い」。責任ある地位に居て、周囲の人々が自分への忖度で不正な行為を働いた時、自らのありようが不正を招いたと恥じた重い責任の取り方をせず、権力ある地位から降りない者は「カッコ悪い」。自国は核兵器を有したまま、他国にその放棄を迫る国は「カッコ悪い」。裕福な国だけ集まって世界経済について相談しあうのは「カッコ悪い」。家計が苦しくても、創意工夫で子を楽しませる若い友人は「カッコ良い」。神から来たと公言しても、ぶざまとあざけられ、反論しなかった救い主は「カッコ良い」。米国で、相次ぐ学校での銃乱射事件に、銃規制を求めて立ち上がった高校生たちが、デモで「Shame on you!(恥を知れ)」と叫ぶ姿は「カッコ良い」。彼らにshameと見られない大人になりたいと思ってしまう。

 今、気になっていることが二つある。福島原発事故で出た汚染土を、放射能レベルが高いまま全国の公共事業で埋め立て土として再利用するというとんでもない動きが環境省にあること。もうひとつは、種子法(主要農作物種子法)をめぐる与野党の攻防だ。この国では今、なぜかカッコ悪さが増幅しているのを感じる。

           (中沢麻貴)