牧師室より

礼拝や集会で聖書のお話をする準備は、私の場合、当該箇所の聖句を一節ごとに書き写す作業から始める。新共同訳の聖句だけでなく、岩波書店訳や独自の翻訳を用いている註解書の訳など、複数の日本語聖句を一節ごとに並べて記し、余裕があれば英文聖句も並べて記す。牧師になって数年は、ヘブライ語やギリシャ語の聖書原典からも聖句を書き写し、自己流の翻訳も一語一語添えて書いていた。今は、さすがに時間的余裕が無くなって、原典は当該箇所を参照して音読する程度になり、気になった単語のみ辞書を引いてメモする。和文・英文の聖句も、手書きからパソコン入力に変えて「時短」した。

 書き写し作業の後は、かなり余白を間にとって記した各節ごとに、疑問点や調べたこと、考えたことなどを、しこしこ書き込んでいってノートを作る。そのうちに、お話の構成が思い浮かんで来たら、それもノートに記す。ようやくそれから、お話の原稿を書き始めることになる。

 集会で、出席者の中に、その日の聖句を手書きで書き写して来られる方や、ご自分なりのノートを作って臨まれる方があると、その熱心さに頭が下がる思いになる(そういう方の前でお話しするのは、少々緊張もする)。私自身はというと、学生時代に比較的予習はやるほうだったが、教会の礼拝や集会への出席に、聖書を予習した経験は皆無だ。

 私が、お話準備で聖句の書き写しを重視するのは、そうでもしないと、聖句の一語一語を丁寧に読むことができないからにすぎない。ゆっくり、繰り返し一語一語をたどることで、ようやく疑問や考えが浮かんでくる。思考が上滑りしないように、ブレーキを利かせながら聖句と向き合う必要を感じる。不器用なやり方だが、これが自分には丁度良いのだ。

 ただ、ゆっくり読むと思考が深まるかというと、むしろ脱線・妄想が広がってしまうことも。イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代」と嘆かれた箇所(ルカ941)では、横縞の柄模様が心に浮かび、集会のチラシはボーダー柄の挿絵になった。創世記のヨセフ物語の準備では、いつの間にか古代エジプト人の目の化粧の虫よけ効果について考察された論文を読んでいる自分に気づき、タイム・ロスにあわてる始末。「常に主を覚えてあなたの道を歩け(箴言36)」なのである。  (中沢麻貴)