牧師室より

散歩で見かける谷戸の田んぼは、畦塗り、代掻きが終わって、ぼちぼち田植えも進んでいる様子。今年は、気温上昇が早いながらも、肌寒い日もあり、苗の準備など、農作業の段取りに悩む年のようです。

 日差しを受けて水が温もっている田んぼを見ていると、「温床」という言葉が思い浮かびました。苗を早く成長させるために温熱を加える方法です。寒い時期からビニールハウスで苗を育てたり、畑なら、苗の周りに藁やビニールを敷きますし、田んぼなら、湧き水を日当たりの良い溜め池に、一旦貯えて水温を上げてから田んぼに入れたりします。先日は、ぬるい水の張られた田んぼから、ひょっこりとアカガエルが顔を出す様が、まるで人が温泉につかって寛いでいるかのようでした。

 温床という言葉は、農作業の中では、楽しみのある工夫なのに、たとえとして人間界の事象に当てはめるときには、あまり良い意味に使わないのはなぜでしょう。犯罪、非行、政治腐敗など、悪いものを助長する温床はなんだろうかと、最近はよく考えさせられます。

 「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」。イエス様は、発言が律法に沿っていても、自らそのようには行動しない律法学者たちを、こう批判されました。広い社会とのつながりの中に学ばず、風通しの悪い仲間内だけで、いつの間にか身につけた傲慢は、やがて滲み出して害をなす気がします。農業の温床も、自然から謙虚に学ぶ姿勢を忘れ、儲け話にうつつを抜かしていると、天災や病害虫で痛い目に遭うこともあります。

 パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と記しました(Uコリント4:7)。仲間内で集まり祈っていた弟子たちは、聖霊の風にさらされて、やがて世界に散り、福音を広めました。蒔かれた種に潜在する聖霊の力が、多様な地に育まれた教会に宿る様を、想い描きます。草取りの夏も近いです。(中沢麻貴)