◇牧師室より◇
「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた、一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。……」
これはマーガレット・F・パワーズの「あしあと」という有名な詩の前半部分である。マーガレットは、カナダ在住の方で、落雷事故で体調不良となり教師の仕事を辞めている。この詩は、のちに夫となるポールと海辺を歩いている時に、波に流されて一人分しか残っていない足跡を見て、「困難な時はイエスが背負ってくださる」と言ったポールの言葉がきっかけで誕生したという。
この詩が掲載されていたのは、『ポケットの中の祈り 26人のアンソロジー』(いのちのことば社、2017)という書だ。たまたま、この詩が書かれた何種類かの絵はがきを持っていて、教会関係者や友人宛に用いてきたものだったので親しみがある。
収録されている詩を以下紹介させていただく。
◇「生きる」水野源三
神さまの 大きな御手の中で
かたつむりは
かたつむりらしく歩み
螢草は 螢草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神さまの 大きな御手の中で
私は 私らしく 生きる
◇「序詩」尹 東柱(ユン・ドンジュ)
いのち尽きる日まで天を仰ぎ
一点の恥じることもなきを、
木の葉をふるわす風にも
わたしは心いためた。
星をうたう心で
すべての死にゆくものを
愛おしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今夜も星が風に身をさらす。
内村鑑三の「我らは四人である」は、19歳で召された長女ルツ子の死に際して詠まれたもので、内村という人物の激しさを感じさせる。紙面の関係で紹介できないが、同書を、週報棚の左横にしばらく置いておく。
ご覧あれ。 (中沢譲)