牧師室より

このところ、マスコミの報道で、公的に高い地位にある二人の人物の「不祥事」が連日報道されている。財務省事務次官の女性記者に対するハラスメントと、新潟県知事の女性との金銭授受をめぐる問題だ。ある番組で、冒頭に男性キャスターが、これらを、「二つの女性問題」という言葉でひとくくりにしたところ、すかさず女性コメンテーターが、異議を唱えていて、興味深かった。問われている問題が異なるのに、女性がからむ問題というふうに同質に見てしまう視点は問題がある、という指摘は的を射ていると感じた。

 追及を受ける二人の当事者の姿がメディアにあふれ、うんざりした気分になる上に、このために、大事なことなのに報道を省略されてしまっていることがありそうで、心配になる。それにしても、優秀な学業成績によって有能さを証明され、高い地位を獲得した人物という過去の評価と、現在問題とされていることの質の悪さとの落差のようなものが、世間を騒然とさせているのを感じる。

 私の尊敬する哲学者、鶴見俊輔氏が、日本の官僚や政治家は、一番病(なんでも一番じゃないと気が済まない病気)だから駄目だと批判していたのを思い出す。自分はまちがわないという理屈が先にあって、それにあわせるように、他のことをねじふせる姿勢がそこから出てくることになるというわけだ。その鶴見氏の著書『期待と回想』に、沢村光博という人の詩『ささやかな露台で』に出てくるひとつの祈りが紹介されている。「決して間違いのないような愛からは、永遠に解き放ちたまえ」。鶴見氏は、「すごいと思う。まちがいに気づくことが大切なんだね。そのことを忘れたくないんだ。しかし、まちがわないという側に自分が立ちたくない」と、それを評している。鶴見氏は、そこから、神学者ニーバーの祈りにも言及している。「変えられるものを変えられるものとして、変えられないものを変えられないものとして、見わける力を私に与えたまえ」。ニーバーより古い中世からある古い祈りの言葉かもしれないと、鶴見氏は述べているが、これらの祈りにある謙虚な姿勢に、倣(なら)いたいものだ。

 復活の主に出会った弟子たちは、主の十字架によって、自分たちのまちがいを逃れようのない形でつきつけられ、頓挫に陥っていたところから、まちがいの向こうにある希望へと導かれたのだ。   (中沢麻貴)