牧師室より

 久しぶりに本屋に入る機会があり、2冊の本と目が合い、購入することとなった。その1冊は『死者を弔うということ−世界の各地に葬送のかたちを訪ねる』(サラ・マレー著、草思社文庫)という書だ。著者のサラ・マレーは作家だが、フィナンシャルタイムズの記者をしていた人物でもある。

 著者によると、「ほとんどのアメリカ人は死後の世界を信じて疑わない」そうだ。50歳以上を対象にしたAARP(アメリカ退職者協会)による2007年に実施した調査によると、4分の3の人々が「死後の世界を信じる」と答え、10人中9人もの人たちが、「天国は存在する」と答えたそうだ。アメリカ人の宗教人口の統計が手元になく、調査対象者の信仰についても明示されていないので、正確さに欠けるが、様々な宗教の信仰者が調査対象であったとするならば、興味深い結果と言える。

著者はこの結果をもとに、来世に何を人々は期待しているのだろうかとの問いを発しつつ、彼女自身はこのように表現する。「私たちが伝統的に行うための死者のための儀式とは、すべて来世のためにある」と。

 たしかに「伝統的」と呼ばれる葬儀にはそのような意味があるのだろう。著者の報告からもそのことが知らされる。たとえば、エジプトでは遺体の上に、無事に「向こう岸」に渡れるよう、船賃を体の上に置くという。日本にも「三途の川の渡し賃」というのがある。似たような理由で、ヴァイキングは船を墓にし、中国人も、旅路の費用にと、葬儀の時にお金を燃やすのだそうだ。またエジプトの『死者の書』は、冥界のガイドブックなのだという。

 さて、キリスト教はどうなのだろうか。天に召された人のためにできることは、神への礼拝と祈りだけである。神への信頼ゆえに、すべてを神に委ねるからである。ただし、葬儀という形での礼拝の場は、遺された者たちへの、神からの慰めの場となり、自らもまた、天に召される時が訪れることを知らされる場でもある。与えるための場ではなく、神から恵みを与えられる場が、キリスト教の葬儀(礼拝)ではないだろうか。

 (中沢譲)