牧師室より

 神学校には、農業実習ができる無農薬有機栽培の畑があった。卒業して牧師になる時、その土を入れた鉢で、数種のハーブ類も共に賃貸マンションの牧師館へ引越した。有機の土には微小な土壌生物が多く、また雑草の地下茎や種も入っていた。ずいぶん大勢で引越したことになる。以来、引越の度に、鉢植を同伴してきた。鉢土は、自前の堆肥と共に、市販の培養土や有機肥料を足しながら使っているが、土壌生物は神学校から継続している。まるで糠味噌のようだ。

 春にはピンク色のネジバナが、夏には白色のタカサブロウが、どこかの鉢に咲く。神学校の土由来の雑草たちだ。見つけると今年も会えたね、と同窓会気分になる。そうした雑草は抜かずに放置するし、土は極力、リサイクルして使ってきた。

 今年残念なことに、そうして栽培してきた野菜類の数種に、マグネシウム不足の兆候が表れたので、応急処置として有機肥料ではない即効性のあるマグネシウム入りの化学肥料を少し投入せざるをえなかった。これがもし市販の野菜なら、有機認証の条件は、二年以上化学肥料を投入していない土で栽培することなので、三年ほどは有機野菜と表示してはいけないことになる。

 土も糠味噌も、たくさんの微小な命を含み、動的なバランスを有している。有機栽培の土や自前の糠味噌を自分好みの状態に、少しずつ調整しながら継続して使っていくことは、私にとっては心楽しい作業だ。また、私が多少失敗しても、微小な生物たちが、互いに影響しあいながら、バランスを見事に修正してくれると感じることが、よくある。熟成という言葉が思い浮かぶ。

 ふと思うのは、神様がこの世界をご覧になったら、それは有機栽培の畑や糠味噌のように、動的なバランスを含む命の集合体に見えるのだろうか、ということだ。だとしたら、土中のダンゴ虫や、糠味噌中の乳酸菌のように、精一杯の仕事をして生きることで、自分もそのバランスに貢献したいものだ。人の世は、とかく変化を急ぎがちである。互いに影響しあいながら、じっくり熟成することの大切さを思う。 (中沢麻貴)